ロイ×後天性エド子 新婚STORY


それすらも 幸せな 日々

              〜シアワセな ふたりの ヒミツ 編





<1>

暗い闇から、聞き覚えのある声が語りかけてくる。

楽しげな、それでいて全てを捨て去ったような陰りのある響き。

呼ぶな。

俺を呼ばないでくれ。


『…ろう? ……なぁ、錬金術師……』

 

 

「うわ…っ!?」

がばっとベッドから跳ね起きて、勢いで床に転び落ちそうになる。

「あ、あっぶねー……」

どきどきどき、走り回る鼓動。胸を押さえて周囲を見回して。

そして余りの自由さに、俺はいつもなら枷になる腕が無いとようやく気がついた。

 

結婚生活、そろそろ2ヶ月目。

ドタバタとだまし討ちのような結婚式とハネムーンで一ヶ月はあっという間に過ぎ、

毎晩かと思われた夜の営みとやらも、当たり前だが2日に一度のペースに落ち着き。


……ってか、これを『落ち着いた』……つーの? いや、だって……多くねぇ?

大佐の年齢と、しかも一回の濃度と回数を考えると……。

いや……ま、まぁ、んなことはさておき。

 なんとかその腕の中で目覚めることにも慣れつつある、今日この頃。

 

 

「あれ? 大佐……もう起きて、る?」

ちらとベッドサイドの時計を見ればまだ司令部に向かうには早すぎる時間で、

一瞬の記憶の混乱の後、昨夜は珍しく泊まりだったのを思い出した。

 

電話を受け、大きなベッドを独り占めで何の心配もなく眠れる、ラッキー! と、

そんな風に思えたのは夜半過ぎる少し前まで。

『なんか、スカスカして、寒ぃ……』

あれだけ大きな湯たんぽが傍に無いのだからそれもそうかと

厚手の毛布を引っ張り出し、ぐるぐる抱き込んで横もう一度横たわった。

 

「……う、やっぱ、さむ…」

だけど、一度外気に触れた体はなかなか暖かくならなくて、なんだか無性に悔しくなってしまう。

もっとひどい宿の部屋でだってぐっすり眠れた俺なのに、

なんでこんな寒がりになっちまってるんだろう。

(これも体質の……変化ってヤツなのかね)

女性のほうが冷えやすいっていうもんな…と勝手に結論を出し、

その奥底にある理由は見ない振りで、俺はなんとか束の間の眠りに落ちたのだった。

そして。

 

「う〜、なんか……すっきりしねぇ」

いうなれば最悪の目覚めの朝。

夢見がいまいちだった記憶はあるのだが、さてどんなと言われると一向に思い出せない。

窓から射し込み始めたさわやかな早朝の陽射しを尻目に、

俺は、も一度惰眠をむさぼる事に決め毛布にともぐりこんだ。だって、ロイは居ないんだし。

 


「…うあぁ……お日様が目にしみる」

次に目覚めたのは十時近くになってから。


今度こそすっきりと目覚めた俺は、いそいそとご飯を求め階下にと降りた。

卵を焼いてバターで炒めたほうれん草とチーズを巻き込んでオムレツを作る。

それにパンと紅茶を添えれば簡単なブランチの完成だ。

のんびりと食べ、洗っておいた洗濯を干したところで「そういえば」と気づく。

(大佐……着替えとか、ないんじゃねえの?)

昨夜はなにやら事件があったとかで急な泊まりになったから、着たきりすずめに決まってる。

しかも、不測のドタバタなら当直明けみたいに早く帰れる可能性も薄そうだ。

「しゃーねぇな、恩売っとくか」


やれやれと小さく肩をすくめると寝室のクローゼットから大佐の衣服を取り出し、

「ま、洗濯するのもこっちだからあんま汚されるのも困るしな」

言い訳がましく呟いてはYシャツや肌着、靴下といったものを小さな袋に放り込んでいく。

本当は少しだけ顔が見たかったりしたのだけど、もう関係者じゃないから気軽には訪ねて行けなくて。

いや、きっと行けば皆変わらず迎え入れてくれるだろう。

それがわかっているからこそ、自分の中で理由がないと足を向けにくいのだ。

「あー、ついでに……間に合うかな?」

時計を見れば11時前。

俺はキッチンに降りると大急ぎで簡単なサンドイッチをこしらえることにする。

 

「忙しい……かもしれないから、途中で食べれる軽いのでいいか」

厚切りのパンを半分にカットして真ん中がポケットになるようナイフで切りこみをいれる。

そこに昨夜のハーブチキン(ロイの分が残ってたからな)とレタス、

それから薄く切ったトマトを挟み薄紙で巻けば出来上がりだ。

「おっしゃ! 俺って天才」

そそくさと着替えのバッグの上にソレを乗せると、俺は意気揚々と家を飛び出した。

 


カンカンカン……。

煉瓦敷きの歩道に軽やかな足音が響く。

家から、歩けば20分走れば10分ちょいの距離を、俺はほんの少し急ぎ足で進む。

 

脳裏に浮かぶのは、いつものようにちょっとすかした笑みの黒髪の男。

『おや、これは嬉しい驚きだね』

多分、第一声はそんな風。

俺が着替えを渡して、それからおもむろにサンドイッチを差し出せばもっと驚いた笑顔になって。

面映い気分の俺に、片眉上げて誘いの言葉をかけてくるかもしれない。

『君も食べていくかい?』

『いーよ、別に。アンタの分しか作ってないし』

『それじゃ半分ずつにしてもいいが……』

『なに?』

覗き込めばきっとニヤニヤといった風情の瞳でいつものように。

『ここまで至れり尽くせりならいっそ、食べさせてくれるサービスもつけたらどうかな?』

伸ばされる手はそのまま俺を捕まえて……。

 

(……ってなに、妄想してんだ、俺!!)

 

やべー、なんか大佐のペースに毒されてる気がする。

そりゃそうだろう。毎日毎晩、あの顔とあの声で口説かれ揶揄われ、マトモでいられる訳が無い。

 


ぶんぶんとかき消すように頭を振ったら、途端くらりと軽い眩暈が襲ってきた。

一瞬のブラックアウト。

咄嗟にしゃがみこんで揺れる波を逃す。またかよ。

「……やっぱ、睡眠不足かもな」

靴を確かめる程度の時間で、周囲に不審に思われることもなく去った眩暈にため息一つ。

 

具合が悪いって程じゃないけど、どうも体調がおかしい気がする。

最近、すこしばかりこんな感じが続いてるから。

「帰ったらまた寝ちまおうか」なんて考えながら、俺は司令部の階段を駆け上がった。

とりあえずは驚く大佐の顔を見るために。

 


だが、人生、間の悪い時はあるもんで。

「ごめんなさいね……」

執務室を意気揚々と訪ねた俺を迎えてくれたのは、

驚いて、そんでほんのちょっと困った顔のホークアイ中尉。

「大佐、まだ会議中なのよ」

聞けば昨夜、警備の不注意で容疑者が逃げ出してしまい、

捕らえたものの、その責任やなんやでいまだに揉めているらしい。

「あー、平気平気。ってか、これ渡しといてもらえ……ますか?」

ため口で話しそうになって、傍に立つ見知らぬ兵の不審げな視線に気づき敬語に変える。

こんな時だよな、自分が軍属じゃなくなったって感じるのは。

申し訳なさそうな中尉に荷物を手渡そうとして……再び視界が暗くなった。

(ヤバい! なんで、んなとこで……)

「エディ……、エドワードくんっ!?」

慌てた口調の懐かしい呼び声に、とりあえず必死で意識を保つ。

踏ん張る足の感覚もよくわからないけど、どこも痛くないから転んではいないはず。たぶん。

「……大丈夫?」

「あ、うん……ちょっとつまずいただけ」

テキトーに言い繕うと半信半疑な表情で。

それでも「気をつけてね」と、軽く肩をすくめて笑顔を返してくれる。

「ありがと。それじゃ無能大佐に、仕事頑張れって伝えといて」

「そうね。それを聞けば、書類の処理も早まるかもしれないわ」

そんな他愛無い会話を交わしながら、俺は司令部を後にしたのだった。

 

 

(ちぇ、せっかく行ってやったのに。ホント、無能なんだからさ)

肩透かしを食らった気分のまま、俺は街並みをふらりと歩いていた。

別に絶対会えるなんて思ってた訳じゃない。ないけど。

実は自分が思いのほか、顔を見れるのを楽しみにしてたと思い知らされた気分。

(……なんか、むかつく)

ほんの数ヶ月の間に、どんどん変えられ流されていく自分に。その状況に。

そして、全ての元凶となった男に。

「あー、やめやめっ!」

らしくなく考え込みそうな自分に活を入れ、ぶんぶんと水を払う犬の勢いで首を振る。

 

俺は坂の下に見えたカフェで一息いれるかと、煉瓦敷きの階段を降りはじめた。

(うん、ここで昼飯でも食って帰ろう)

空気に混ざる美味しそうな香草の香りに腹の虫が主張をはじめる。

しこたま食って、全部大佐にツケてやろうか…なんて馬鹿なこと考えながら

俺は軽い足取りで石の段を蹴った。

が。

「……ぅあ!?」

一段、無いと思ったはずの階段が脚を取り、中ほどで俺はぐらり体勢を崩してしまった。

まずい!……と思ったが後の祭り。

 

「っ!」

ぐきっ!


背筋を駆け上がる痛み。つこうと出した手はむなしく空を切り、

生身に戻った左足首を大きく捻ったまま、俺は数段転がり落ちる羽目となる。

 

「〜〜〜〜っ!」

(くそー、機械鎧なら全然平気だったってのに……)

途中の踊り場に救われ、かろうじて座り込んだ体勢で

今までは自分に無かった箇所の新鮮な痛みに耐えていた。


じーんと疼くような痛みが次第にずきずきと波打つそれに変わっていく。

痛みにぎゅっとっを閉じるとほぼ同時に、また、あの暗闇が襲ってきた。

今度はハンパなく。


(う、うわ……。ま、ずい……)

 

数度踏みとどまった意識を今度こそ持っていかれながら、俺が考えていたのは

これで昼飯を食べ損なうかも、なんて後にして思えばお気楽な悩みだったのだ。


 <2>

「あ?」

ぽっかり目を開ければ、何度か見た覚えのある白い天井。……と、浮かぶ染み。

あれ、ここって……と思ったところでドアが静かに開き、

さっき別れたはずの中尉がその姿を現した。

 

「……よかった、気がついたのね?」

「え? ホークアイ…中尉? ってここじゃ、やっぱ、軍の…って、痛ぇ!」

うっかり置き上がろうとして足に力をいれた俺は、

ビーンと脳天まで走る鈍い痛みに思わず叫んでしまった。

「ああ、ほらじっとして」

ベッドに近づく中尉の姿。痛みに記憶がクリアになる。

「あー、そっか。俺、階段から……」

実際は足を踏み外しただけなんだけど、その直後に眩暈でブラックアウトしたから

傍から見たら落ちて頭でも打ったように見えたのかもしれない。


「あの食堂のご主人があなたの事知ってね」

マスタング大佐とのド派手な結婚式は未だに語り草で。

だから俺の顔も実際以前より売れてしまっている。

今回はそれが幸いしたのだと中尉は言葉を続けた。

「気を失ったからって慌てて軍部に連絡をしてくれたのよ」

そう言われて思い返せば、運び込まれ手当てを受けている一連の記憶が……ない。


ということは。


どうやら気絶したのをいい事に、俺はそのまま眠ってしまったらしい。

「う、わー……」

余りの失態に頭を抱える。

いくら最近夢見が悪くて寝不足とはいえ、ドジにも程がある。

昨夜からの騒ぎで忙しいであろう中尉に、こんな風に気を使わせてしまうなんて、

あああ、もう穴があったら更に深く掘って埋まってしまいたい気分。

だけど、なんだかホークアイ中尉の関心は別のとこみたいで。

 

「……ね、エディ。ちょっと教えて欲しいんだけど……」

切り出されたのは最近の体調について。

 

で、俺は問われるまま、ここしばらくやたら眠い事や下腹が重い事などをつらつらと語った。

結果、出た結論は。

「それは……エディ、もしかしたら……もしかするかもしれないわね」

「へ?」

小首を傾げれば困ったような笑ってるような中尉の表情。

「つまり……あなたはもう結婚してる訳だから、…そういう可能性もあるってこと」

遠まわしな言葉に、フリーズすること約30秒。

 

 


「う? え、え……え、えええええええぇぇーっ!?」

中尉の言う『可能性』とやらに思い至った俺の絶叫が司令部内に響き渡った。

「それ、それって……もしかし…赤……っ」

後が恐ろしくて続けられない。

 

そりゃ、たしかにイタシテル訳だし。しかもあんなに何度も。

でも、でもでもでもでもーーーーっ!


ついこの前まで男で。まだ女になったことすら完全には納得できてないのに。

 

(このうえ、母親になれ……ってか!?)


浮かんだ単語に血の気が一気に引く。

無理! 絶対無理!!

 

 

母さんは大好きだ。母親ってすげぇとおもう。

一つの命を生み出して育てるなんてものすごい奇跡の技だよ。錬金術でもできない。

だけど。

 


(あ、あんな……苦しそうな……)


以前ウィンリィとラッシュバレーに行った嵐の夜、偶然出くわした出産劇。

その記憶が一気に蘇り、俺は体の芯が冷たくなるのを感じた。

 

おかしいのかな。

 

あの夜、赤ちゃんが生まれた瞬間、ものすごく感動した。母になった彼女は誇らしげで輝いていた。

それだけじゃない。

読んだ小説でも、子供の頃に村で見た映画でも

「赤ちゃんができたわ」っていう女の人は皆、幸せで嬉しそうで……。

 

なのに、今の俺には不安と恐怖しか浮かばない。自分がいやおうなしに変えられてく怖さ。


(ああ、やっぱり俺、無理……)

仮定でしかないと理性はささやくけど、なんだかもう…そうとしか思えなくて。

黙ってうつむいてしまった俺に何を感じたのか、中尉はポケットから手帳をとりだし一枚破りとる。

「まぁ、あくまで一つの可能性だから」

さらさらと走るペンの音と被せて落とされる静かな声。

「この人は軍の女性がかかってる医者よ。女医さんだから心配事も聞きやすいと思う」

そう言ってメモをそっと机の上に置くと、中尉は俺の頭を軽く撫で仕事に戻っていった。

静かにしまった扉はまるで、いままでのおままごとな日々との別れのように響いて。

 


「俺に……こども……?」

ベッドに横たわり呆然と呟く。

いや、まだそうだと決まった訳じゃないけど。

(い……やだ……)

背筋をぶるりと寒気が走って、俺はシーツの中、蓑虫となった。

 

どうなっちゃうんだろう、おれ。こんな心細いのは母さんを失ったあの夜以来かもしれない。

先の見えない夜に、独り目覚めてしまったような頼りなさ。

知ってるはずの世界が、全然違う顔に見える。

「どうしよう……」

 


そんな堂々巡りを打ち砕いたのは、廊下から聞こえてきた切れのいい軍歌の音。

カツカツカツ……と、挑むようなリズムでなるあの響きは。

(大……佐?)

むくりとシーツから体を起こした瞬間に、バン!とはじかれるようにドアが開いた。

「大丈夫かね、鋼の」

らしくなく息を切らせて登場したのは、俺のいわゆる……夫っていう立場のロイ・マスタング大佐。

どうやら会議から執務室に戻った途端、俺が倒れたと知らされ直行した気配。

だって、ほら、右手には握り締めたままのサンドイッチたちの袋が。


どくん。

 

(ああ、もう! なんだってんだよ!)

とっくに見飽きてもいいその姿なのに、不覚にも鼓動は走る。うれしいと。

「あ……うん。ちょっとよろけて足捻っただけだし……っ!」

大丈夫と言いかけ、床に足を下ろしたところで硬直する。

がっちり固定してある足はなんだか像の足みたい。

「あまり大丈夫、ではなさそうだな」

「い、いや、これは……びっくりして…って、て、て……アンタ、なにやってんだよっ!?」

「なにって、見てのとおりだが、わからないか?」

わからないんじゃなくて、わかりきってるから困ってるんだっつーの!

だってこれはどっからどう見ても、まごうかたなく『姫だっこ』ってヤツじゃんか。

平然と言い切られぱくぱくと酸欠の魚状態の俺に頓着もせず、

大佐は医務室のドアをそのまま潜り抜けると、廊下をゆるぎない足取りで玄関にと進む。

「ハボック、車は?」

「はっ、大佐。すぐ正面につけてあります」

「ご苦労」

なんだか知らないうちにいろんな手配が終わっているらしく、

俺はあれよあれよという間に黒塗りの車に抱え込まれる。隣には当然のように黒髪の大佐。


まっすぐ前を見つめるその瞳の、余りの真剣さに俺はふと不安になる。

中尉だから不確定なうちに大佐に何を話すとも思えないけど

それでも、例の話が伝わっているんじゃないかと。

 

もし本当にそうだったとしたら、この男は…どう思うんだろう。

 


(だって、さ……ヤじゃねえ?)


少し前まで男だったのをこいつは知っている。

運命の悪戯でこんな体になったのも。

 

百歩譲って結婚くらいまではできるにしても、子供となると話は別だ。

 

だって、そういうのやっぱ……ちゃんとマトモな女の人のほうが……いいじゃん。

(なにがどう変えられたとかわかってないんだし、遺伝だって……)


なまじ頭に残る知識が不安を助長する。そのくらい、当然、大佐だって考えるだろうし。

だけど隣に座る横顔からは何も読み取れない。

結局腹を探るのが苦手で、かつ短気な俺としては直球勝負に出るしかない。

「あのさ……中尉から、なんか聞いた?」

「『なにか』とは、『君が睡眠不足らしいからほどほどに』と釘を刺されたことかな」

「そうじゃな……って、え? えええっ!?」

あんまりな忠告に上げる声が裏返る。

「なっ…な、なな……」

ほどほどにって、やっぱアレだよな? ってか、なんでそんな話司令室でしてんだ!?

真っ赤になってパクパクと声も出ない俺を見ると大佐は面白そうに笑って。

「なに、冗談だ。君が睡眠不足らしいと心配していたのは本当だがね」

(だよな〜。あの中尉がそんなこと言うわけないじゃん)

ほっと息を吐けば、更に追い討ちをかけるように。

「しかし、私が一晩いないくらいで…寂しくて眠れないのでは、当分夜勤は入れられないな」

「だっ、だれが……っ!」

冗談じゃねえと拳を握ればニヤリ投げかけられる、いつものからかうような瞳に

俺はとりあえず心配している事実を大佐が知らないと確信したのだった。

 

 

そうこうして互いに無言のうちに、あっという間に車は俺達の家の前に到着し、

またしても異論を唱えるまもなく、俺は横抱きにかかえられて家の玄関をくぐった。

(なんか……結婚式の後みたい……)

あの時も『花嫁は抱かれて入るものだよ』とか何とか言われて玄関をくぐり、そのまま……。

……いやいやいや!

連鎖反応で思い出しそうになるあれやこれやを必死で頭のあっちに追いやって、

ぎゅっと目を閉じれば痛んだとでも勘違いしたのか、そっとリビングのソファに降ろされる。

 


「少し待っていなさい」

言葉を残し立ち去った大佐は、一階の客間のドアを開けると簡単に空気を入れ替え

そのまま俺をそこのベッドに運び込んでしまう。なんの説明もなしに。

「ちょ……、これいったい……」

「しばらくここが君の部屋だ。その足で階段の上り下りなど自殺行為だからね」

ポンと頭を撫でられ、くすぐったいような気分にうつむいてしまいそう。

「必要なものがあれば、部屋から降ろしてあげるから言いたまえ」

安静が一番の薬だと、黒い瞳が微笑む。

「んな……過保護だっつーの」

 

ぶつぶつと半分悪態をつきながらも、大佐の心配りは嬉しくて。

だってやっぱ、結構痛かったしさ。


おかしいな、怪我なんて慣れっこのはずなのに。

 


「……つーか、なんであんたまでそこで軍服脱いでるんだ?」

俺を連れて帰ったら司令部に戻るだろうと踏んでいた大佐が、いきなりくつろぎの体勢に入り、

幾分焦りの声で問いかける、と。

「ああ、私ももう今日は終わりだ」

「マジで? まさかと思うけど……書類とかほっぽりだしてねぇ?」

「人聞きの悪い。たまたま昨夜も時間があったからね」

 

今日から二日休みだと告げられ、俺は続ける言葉を失った。

<3>

「なん…か…アンタへの認識が…変わったわ、俺……」


帰宅して早々、大佐は俺の日用品を二階の部屋から取ってきて手際よく客室に並べ、

俺には甘めのミルクティを「落ち着くから」と手渡した後で、

湿布で固定した足首を検分すると「全治1週間というところか」と腫れ具合を見て呟いた。

「咄嗟に全身が緊張したはずだから、明日当たり筋肉痛がくるやもしれないな。

少し筋肉をほぐしておくか……」

誰に言うともなく呟き今度はバスルームに消えたかと思うと、バスタブに湯を張る音が聞こえてきた。

 

このくらい気がつくのならいつもそうして欲しいと思う勢いで動き回る姿に、

俺は半ば呆れ気味の視線を飛ばす。

「アンタって……そんなに動けたんだな」

聞きようによっては(いや、よらずとも)失礼な感想を零せば、にやりと笑う口元。

「有事の際に対応できなくては軍人とはいえないだろう?」

「有事って……」

それほどのもんか!?…と思うが世話をかけてる身としては何もいえないので、その先は濁して。

「さて、これで大抵の事はベッドからさほど動かず出来ると思うが」

他に必要なものはあるかと問われ、とりあえずぶんぶんと首を振る。


「そうか、それじゃ……」

と、次に大佐が向かったのはリビングで。


なにやら大きなものを引き摺る音に俺は思わず声を張り上げた。

「ちょっとまった! ソファ持ってきてもこの部屋には入れねえからなっ!」

途端ぴたりと止まる物音に俺は自分のカンが正しかったことを知る。

「しかしだね、鋼の。一緒に寝るにはそのベッドは狭いだろう?」

「誰が一緒に寝るんだよ! この足で!」

「おや、つれないことを平気で言うね。……私のエディは」

不意に変わった呼びかけと声音に俺は硬直した。

 

一時期エディと呼ばれるたびに激しく抗議した成果あって、

今でも大佐は俺の事を『鋼の』と呼ぶ。

それは変わってしまった事実に今だどこかで抵抗している俺を知るからこその気遣いで、

だから俺がこんな乱暴な口調のままなのも容認されているんだけど。

 

でも、……だからこそ、ヤバイ雰囲気になった時にその名前で呼ばれるのが…って、違あぁーう!!


「だーかーら! 俺はここで寝るけどアンタにはちゃんと寝室あるだろ?」

こんな身動き取りにくい状態で寝技に持ち込まれたら、どんなコトされるかわかったもんじゃない。

ので、そのあたりはきっちりはっきりと釘をさしておく。

「だが、夜中に何かあったら困らないかい?」

「ないっつーの!」

少なくともアンタが何かしない限りは…という台詞は飲み込んで俺はきっぱり断言する。

「それよりお湯、平気?」

「ああ、言われてみればそろそろかな」

話を遮るように大急ぎで、響く水音をBGMに告げれば大佐はやれやれと廊下を歩み去っていった。

 


(よ、よっしゃ、この隙に……)

広い背中が廊下に消えるや否や、俺は静かに脚を下ろしベッドから立ち上がろうと力を入れた。

なにせ、言うにいえない切羽詰った事情がおきていたので。

「いっ!」

踵を着くだけで鈍い痛みが起こるが、最初よりはまし……な気がする。

(だ、だけど……とりあえず立てた。廊下出てすぐだし……)

そっと体重を無事な足にかけ一歩、もう一歩と進んだところで……再びドアが開いた。

「うあ!」

ドアノブをつかんだ状態の大佐を見たまま、俺は硬直してしまった。


だって、え? 早すぎるだろ?


そんな俺の狼狽など気にも留めず、低い声が飛んでくる。

「なにをやっている! ばか者」

ベッドの横に立つ俺を見ると三歩で部屋を横切って、大佐はひょいと俺を抱えあげた。

「まったく君は。……機械鎧にも耐えたくらいだから痛みに強いのは知っているが、

少しくらい安心して体を休めたまえ」

「あ、や、……そうじゃ…無くて」

「言い訳は聞かないよ」

再びベッドに戻されそうになって俺は慌てて大佐の首にしがみつく。

「鋼の、なにを……?」

いつもなら絶対しないだろう(ああいう時は別として、だけど)行為に大佐の動きが止まる。

「そ、そうじゃなくて……あ、あの……いきた……」

ん?と不審そうに俺を見つめる大佐の瞳は、当然説明を求めていて。

「あ、あの……な。えーと、その……ト…イレ…に」

なんでかものすごく恥ずかしくなって俯いて囁けば、にやりと笑う気配。

あああああ、だから、こいつが居ない間に行こうと思ったのに!

「なんだ、そんなことか」

言いながら体を再び起こすと軽々と俺を運んで廊下へと向かう。ヤな男。

 

 


危なげなく抱えたまま、トイレのドアを開けると「ほら」とゆっくり降ろしてくれた。

が。

 

「………てっめえ、さっさとそこ閉めて向こうへ行けよ!」

「しかしその足では立つのも危ないだろう? 何をいまさら遠慮しているんだい」

にやにやにや。

だーもー! だから、こいつに言うの嫌だったんだ!

「どうした? 脱がせてあげよ……」

「この、セクハラ大佐! いっぺん死んで来い!」

無事な足で立つとその勢いで俺は一気に大佐を押し出し、そのまま激しくドアを閉めた。

廊下から漏れ聞こえてくる笑い声は、

壁から槍でも錬成してやろうかと思っているうち遠ざかっていった。

 


さすがに本気でちょっかいかける気はなかったらしく、その後は平穏で。

真っ赤な顔で俺がトイレのドアを開けた時、廊下のどこにも大佐の姿は無かった。

(ってか、そこまでデリカシー無かったら、ぶっ殺す!)

 


ドアの開く音が聞こえてから数十秒。現れた大佐はラフなズボンと腕まくりしたシャツ姿。

捲った袖から覗く腕とか、そんな何の変哲のないところにまでドキドキする自分がちょっと嫌だ。

「……さて、それじゃ次はバスタイムだな」

当たり前のように言うと、そのまま俺をバスルームにと運んでいく。

「ちょ……だって、おれ……足が……」

抗議の暇もなく脱衣所に連れて行かれると、既にそこにも椅子が用意されていた。

くそー、この如才なさが悔しい。

 

「これに着替えて」

ポンと渡されたのはタオルのガウン。

「へ?」

「さすがにオールヌードの君を見て手を出さない自信は無いのでね」

笑いながらそういって外にと出て行く姿はなんだか……照れくさそう? まさかね。

「ば、……ばっかじゃねぇの…」

こんな貧相な体さんざん見てるだろうに。それこそ、あんなやこんなまで……。

(……って、だーから、なに思い出してるかなぁっ、俺は!)

浮かび上がる記憶をばたばたと手を振り回して打ち消すと、はぁと一息ついて着替え始めた。

 

ゆっくりと服を全て脱ぎ去り、ガウンを素肌にまとう。

「これ……どうすっかな」

足首に巻かれた包帯はやはり外さないとまずいだろう。

だがそんな心配をするより先に、ノックとともに入ってきた大佐が俺の足首を持ち上げると

ビニール袋を被せ、足との間にタオルを挟んでぐるぐるとテープで止めてしまった。

「おお! すげぇ!」

「とりあえず、この湿布薬は一晩しておけと言われたからな」

そのまま姫抱っこして風呂場に入ると、ガウン姿の俺を迷うことなく湯船に降ろしていく。

 

「左足は濡れないように縁に置きなさい」


俺は大佐の指示通り、捻った足をバスタブにかけた格好でゆっくりとお湯に浸かった。

沈むにつれ、ちょっとばかり足を広げたヤバい格好になっていくけど、

大きめのガウンが広がり上手く腿までを覆ってくれたから、俺は安心して体の力を抜く。

「は、ふう……」

温かいお湯が張り詰めていた筋肉に心地よい。

くったりともたれかかれば、大佐が肩や上げた足の膝に静かにお湯をかけてくれる。

濡れて張り付いたガウンにお湯が注がれ、暖かさに包まれる。

 

「きもち……いい」

「それはよかった」

本当に嬉しそうな大佐の声。

 

俺はくすぐったいほど甘えた気分になってしまう。


目を閉じて体中の力を抜くと、ふわふわとお湯に揺れるガウンが柔らかな愛撫のようで、

眠くなるようなシアワセの中、俺はなぜだか泣きたい気分になった。


こんな風に甘やかされるのは母さんが居なくなって初めての事だったから。

 

「アンタが、こんな世話やくタイプだとは…思わなかった」

ただの捻挫くらい、お互いが歩んできた道程を考えれば怪我とも呼べないものなのに。

「ああ、私も驚いている」

返されるのは静かな声。

「だが、こう出来て良かった、と思うよ」

「え?」

どういう意味かわからず、そっと見上げればやさしい笑みとぶつかって逸らせなくなる。


「今までは、君が旅先でどんな怪我をしようとも、守るどころか知ることすらできなかった」

どこかの誰かさんの報告は事後が多かったからねと言われれば、覚えがあるだけに後ろめたく。

「あー……だってそれは…」

「ああ、わかっている。君達兄弟の旅は君達のものだ。私がどうこう言う筋合いは無い」

だが、と男は笑う。

「今は……誰よりも先に知り、誰よりも心配していい権利があるからね」

「なにそれ」

聞き返す声が掠れる。顔が熱いのは、きっとのぼせてる所為。

「どうやら私は君を甘やかすのが楽しいらしい」

「……ばっ、ばっかじゃねえの」

居たたまれなくて無理やりそっぽを向けば、耳元に落とされる楽しげな笑い声。

「うん。悪くない反応だ」

 

ああもう、俺、やっぱこいつには勝てねえかも。

 

半分沈みそうになってる俺をぐいと持ち上げて、そっと静かなキス。

性的な含みの無い触れるだけの口づけは、俺の心の深いところにまっすぐに落ちていった。

つきんと甘く痛む気持ちは、それでも不快なものではなくて、むしろ……。

(……どうしよう。俺、もしかして…そーとー惚れちゃってる?)

 

やさしさが切なくて、滲むまぶたをばしゃばしゃと洗って誤魔化す。


ホント、なんだよこれ。俺弱りすぎてるだろ?

 

「どうした、鋼の?」

大佐の声がちょっとだけ遠い。

(あ、やば……のぼせ、た……)

半分以上は多分大佐の所為と思われる眩暈に、ずず…っと浴槽をすべり落ちる身体。

「っ!?」

閉じかけた瞳に慌てる男の顔を映しながら、俺はお湯の暖かい手にわが身をゆだねた。

次の瞬間。

大急ぎで抱えあげられ、今度はガウンをバスタオルに換えられ拭われて、

朦朧としたまま俺は、パジャマ姿でベッドの住人となった。

 


途中経過で…多少、のぼせが助長される出来事が、えーと、

あったり無かったり…あったり…したんだけど、

そのあたりは、言わぬが花…って事にしといてもらいたい。


あ、でも! 俺の足を動かせないから当然最後までは行ってない!

んなこと………力説すんのも、虚しいが。

 

 

結局大佐が休みの二日間、俺はほとんど自分で歩くことの無い生活を送った。

それは本当に信じられないくらい穏やかで自然な日々で。

だから俺は、うっかり忘れそうになっていたんだ。

この日々が変わる可能性があることを。


<4>

「本当に大丈夫か? 無理はしないように……」

「わかってるって」

「昼食はグレイシアさんが届けてくれるからそれまで待って、洗濯は…」

「あー、もう! 大丈夫だって言ってんだろ! 早く行けってば!」

 


二日にわたる休暇が終わり、出勤の朝。


ご丁寧に車で迎えに来た(否、多分中尉に命じられた)ハボック少尉に視線を流し

俺は最後には半ば怒鳴って、無能な大人を送り出していた。


いや、心配してくれてるのはわかるけど、この二日の絶対安静で

俺の捻挫はありえないほど早く回復してきていて、今では無理をしなければゆっくりと歩ける。

そんな訳で玄関まで見送りに出たところがこの騒ぎである。

 

(しかし、マジでこういうタイプだとは本当に思わなかった……)

元々身内や部下には心を砕く性質だとは思っていたが、まさかここまでとは。


母さんをなくしてからこっち、ここまで甘やかされた記憶などなくて、

それはくすぐったいを通り越し「このままじゃ、俺、駄目になる」と危機感を覚える程。

まぁ、当の本人も意外がっていたから、自分がトクベツなのかと思えば……悪い気はしない。正直。

でも、それが良いか悪いかといえば、微妙なところ。

 

(なんかさ、まるっきり守られてるのって…変)


こんな風に流されて当たり前になってしまうのだろうか、日々の生活が。

楽なのは助かる。嫌な訳ないし、むしろ心地よかったり嬉しかったりするんだけど、

それでもどこか引っかかるのは、まだ俺の中に残る男の意識の所為だ。

一人で立って前を向いていた自分が、どんどん弱くなるような危機感が拭えないから。

 


「どうかしたかい、鋼の」

呼ばれ我に返る。

なんでもないと首を振って笑顔を浮かべれば、幾分不審げな男の瞳がそれでも微笑んで。

「それじゃ行ってくるよ。無理はしないように」

「うん、わか……っ、ん、ん〜〜〜っ!」

返事を待たずして幾分強引に唇を重ねられ俺は玄関で硬直する。

ここしばらくのおとなしい夜を逆手に取るかのような扇情的なキス。絶対朝向きじゃない!

 

「んっ、ぅん、んふ…」


かくんと膝の力が抜け玄関の廊下にそのままへたり込むと、ぼんやりとした瞳の前で静かに閉じる扉。

そんで。

 


「なっ………、なにしやがる! エロ大佐っ!」

金縛りモードが解除され俺が真っ赤に染まる頃には、元凶の男はとっくに車上の人となっていた。

 

 

「あああああーっ、もう、アイツは何で、あんなかなぁーっ!」

誰も居ないのをいい事に、大声で鬱憤を晴らしながら俺は自分の部屋に足を運ぶ。


恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしいヤツ!


(あ、あんな…ばしょで、っ……あ、あんな……キ……)

俺は勢いのまま、ぽすん…とベッドに体を投げ出しシーツの波に身を隠す。

とりたててしなくちゃいけない家事も残ってないから気を紛らわす術もなく、

俺は衆目の中でのキスという現実から逃避するためにぎゅっと瞳を閉じた。


困るのはどこかで嫌がってない自分が居るのを感じるから。

そんなの駄目だ。なんか間違ってる。


(そ、そりゃ……もう俺は女なんだし、結婚してんだし、おかしくは無いかもだけど……)

世間的にはそうでも、自分の中ではまだ確固として男に戻りたい心があるはずで。

それなのにこの環境が気持ちいいなんて、許されない。許しちゃいけない。

 

なのに。

流されまいと抗う自分ともうひとり、このまま大佐の傍で笑っていたい自分が居る。

 

(だって、やっぱりもう戻れないんだろうし、さ)

シーツに包まり、わが身の変化を考える。

(赤…ちゃん、だって……)


まだ確定した訳じゃないけど、でも多分……外れてない気がする。

そんな風に、ここ数日考えないようにしていた事を不意に思い出し、そして気づく。

(………おれ、嫌がって……ない?)

 

最初に可能性を告げられた日襲ってきた、言いようの無い不安と恐怖心がなぜか今は感じられない。

 

そっと未だ平らな腹部に手を伸ばせば、不思議な気分が湧き上がってきた。

「おれ、と……大佐の?」

口に出せばいっそうむず痒くて、くすぐったくて…いたたまれない。

うそだろ、なにこれ?

「ホントに……そう、なら……」

告げた時に、あの男はどんな顔をするんだろう。

驚く? 困る? それとも、喜ぶんだろうか?


不意に浮かぶのは、嬉しそうに俺の世話を焼く大佐の顔。

(あんな表情、できるヤツだったんだ……)

ちょっと前までなら子供と大佐のツーショットなんて想像もつかなかったけど、

今なら……あの黒い瞳に浮かぶ柔らかな光を見てしまった……今なら。

 


(くっそー、なんだってんだよ)


ずるい、と思う。卑怯だよな。

こんな弱ってる時、無条件に向けられる笑顔はある意味凶器だ。

保とうと肩肘張ってる心を、いとも簡単に切り裂いていく。

 


「なんなんだよ、もう」

シーツのなかで蓑虫のように丸まって俺は、火照る両頬を冷たい布に押し付けた。

どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 

ぎゅっと目を閉じ闇に逃げれば、くらり押し寄せる漆黒。

 

(あ……ヤバ)

いつもの眩暈じゃないと心が告げる。


(寝れなかった、から……)


部屋が変わった所為か、この2晩、嫌な夢ばかり見ていた。

眠りよりも深い闇に落ちていく感覚。そして、そこで出会う……何か。

記憶の底に沈む悪夢の気配が、そこここに満ちていく感覚。

 

『そこ』に行ってはいけないとどこかで自分が叫び、本能が目覚めを誘う。

 

守ってくれる温もりも無いまま、繰り返す浅い眠りと目覚め。

部屋が別だから大佐に知られなかったのが、唯一の救いだと思った。

問い詰められ心配されたところで…自分でもなんの説明もできないのだから。

 


その、避け続けてきた闇が目の前まで迫ってきた気がする。

(まずい……)

意識を保とうと目を開いても、あたりは薄闇のままで。

ここ数日の睡眠不足で俺は、逃れようも無くまっすぐ無意識の渦に落ちていった。

 

 


(ああ、またあの夢だ)

白い闇を歩くと、目の前に現れる無人の街。

誰の姿も無い大通りをただひたすらに歩く。

 

と、ふいに目の前に現れる大きな扉。

 

この扉を、俺は、よく知っている。

だって、それは。

(な、んで?)

 


それはかつて俺の腕を奪い、足を奪い、弟を奪い……

そして、俺の存在すら変えた悪夢への入り口。

 


夢だ、と自覚してるのに、心のどこかが本物だと知っている。

だけど、そんなことってあるか?

 


『ばかだな。とうとう来ちまったのか、錬金術師』

「……っ!? 誰だ!」

唐突に扉の向こうから響いてきた声。いや、それはむしろ俺の内部から聞こえる。

(なんでだよ? 俺は扉を開いてなんかいないのに……)

 

『知らないのか? 真理の門と呼ばれる扉は、人の魂の奥底にあるんだ』


次第にクリアになる声。嘘だ。どうして、いまになって、また。

『あのまま、お別れかと思ってたのに、よほど怖かったんだな、おまえ』

 

怖い? なにが? 今では街中に響く声は耳を塞いでも追ってくる。


『怖かったんだろ? 不安だったんだろ? こんな場所に逃げ込むほど』

「違う!」

『なにが違う? そりゃ嫌だよな、命を生むなんて咎人には過ぎた望みだ』

 

声とともに、ゆっくりと開き始める扉からどろりとした白い闇が零れだしてくる。

『だから、おまえを助けてやるよ』

「なにを言って……」

 

『全ては偽り。たわごと。戯言』

 

白い闇が動けない俺の脚から這い上がってくる。張り付いた喉は悲鳴も上げれないまま。


『まさかおまえが順応するとはね。しかも子供だって? 予想以上の収穫だ』

ぞくりと肌が粟立つ。

 

次元が違うイキモノ、全ての理屈のベクトルが異なる存在。

 

それは理解を超えた恐怖だ。食いしばった歯から微かな息が漏れた。

 


『本当に自分の存在が変わったと思っていたのか? 許されると?』

「……っ……」

『ああ、楽しかったよ。おまえが足掻くのを見るのは』

純粋な悪意に満ちた好奇心は、人間をひとつの実験素材としか見ていないのかもしれない。


『人の抱く、希望…絶望。それら全てが、素晴らしい甘露』

粘性の高い悪意に絡め採られ、俺は真理と呼ばれる存在の意図を察した。

 

『もう一度、おまえの希望をもらっていくよ、錬金術師』

 


「ひっ……」

夢と思えぬ現実感で、俺の体が解かれ、紡がれていく。

真っ白な世界に浮かぶ肉体は、あの日の再現のように何一つ自由にならない。

(い、やだあぁ……)

眠りの中で絶叫しながら、俺は自分の意識が剥ぎ取られていくのを感じていた。

 

 

 

そして、朝。

 


泥のように重い体と心を抱え目覚めた俺は、そのまま大佐の前から姿を消した………。

【シアワセなふたりのヒミツ 編 END】
(2009.2.13)




WEB拍手で連載の後天性エド子新婚STORYです。
なんだか出だしに似合わぬ不穏な気配。
でも、絶対にハッピーエンドですからね!


最終話「ハッピーエンドはお約束」はWEB拍手に掲載中





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