つまさき立ちの恋
                   (木吉高3・黒子高2の 初夏のある一日)

 




 背のびするキスに慣れていた。

少しだけつま先立ちで、重心を前に預けて。


支えるように添えられる大きな掌。
頬や肩に感じる熱は、ボクにいつも勇気をくれた。
表情に出ない鼓動を読みとるように瞳をのぞき込み、その人はそっと上体を屈めてくる。

部室の陰で、人気のない放課後の廊下で。
かすめ取るように、一瞬だけ重なる唇。
耳だけ赤くして怒るボクを知りながら、先輩が仕掛けてくるいたずら。

それでも嬉しかったのだと気づいたのは、先輩の姿を校舎で見なくなってからだった。




 

「……から、この定理はでるらしいって」
「そっか、なかなか範囲広いなぁ」
「うん、まいるよね。あの先生、鬼すぎ」
夕暮れと言いながらまだ明るい陽の射し込む病院。
真っ白で生活感のない廊下を歩きながら、ボクは聞こえてきた微かな声に耳を澄ました。
なじんだ少しだけこもる笑い声に、重なるメゾソプラノのクスクスという響き。
思ってもいなかった展開に、木吉先輩の病室まであと少しという場所で、足が重くなる。
「で、今度のテストは…152ページまで。ここね」
ぱらぱらと教科書をめくる音と、聞いたことのない女の子の声。
内容からクラスメイトだろうと察する。おそらく、カントクの代わりにノートを届けにきた相手。
今日、バスケ部の三年は試験前の補講を受けているから。

補講といっても成績が悪い訳じゃなく、むしろその逆。
入部当時に聞かされた話では、バスケ部の先輩は皆それなりに成績もいいのだ、意外なことに。
そのため高3になったこの春から、放課後の補講が週一で入るようになっていた。
進学率が気になる新設の私立ならでは対応だよなと、頭を抱えていたのは主将だったか。
必然、その日は自分たちの練習より新入生を指導する時間が多くなる。
面倒ではあるが体力的には幾分楽で。だからこそボクも、こうして練習帰りに木吉先輩の病院を訪ねる余裕ができたわけだ。
けど。
先客が居るとは考えてもいなかった。

「こっちは橘くんから。頼まれてた本だって」
「ああ、悪い。重かっただろ」
「たいした距離じゃないし平気よ」
入り込めない会話に廊下で逡巡する。進むべきか否か。
冷静に考えれば悩む方が不自然だ。部活の後輩が見舞いに来たってなんの不思議もないんだから。
でも戸惑うのは、目の当たりにする他人との会話に、今まで意識しなかった距離を感じて。

クラスという、自分の知らない世界で生きている先輩。
ボクの知らない人と親しげに話す先輩。

一番近くにいると思っていたのに、なんだろうこの疎外感は。
ドアの手前、立ち止まった足が動かない。

このまま帰ろうか、それとも行こうか。
答えは思わぬ方向からふってきた。
「今回タンパク質の電離平衡も入るのか、厳しいな」
「進むの早いよね。二学期までに終わらせて受験体勢とか、信じられない」
漏れ聞こえてきた内容に、ボクの頭が回転する。
この時期に化学を、しかもおそらくはUをやっているなら先輩は理系ということだ。
気になっていたけど、訊けなかった情報。
無意識に口元が緩んだ。
立ち聞きなんてみっともないとささやく理性を、感情が押しとどめた。これはチャンスかもと。

知りたかったコトがわかるかもしれない。
知らなかった先輩の顔が見れるかもしれない。

罪悪感を好奇心が駆逐した。

理系だとして志望学部は? 大学は?
そんな先のことまで踏み込んでいいか不安で、口に出せない疑問たち。

好きだと告げたし言われたし。今は確かに『おつきあい』してるとは思うけど。
この関係が先まで続くのかどうしても不安で。
訊いたことで追いすがるような存在だと思われたくない。そんな負担にはなりたくない。
だけどやっぱり知りたくて。
入り乱れる二つの気持ちはどちらもホントウだから。

「勉強の話を邪魔するのは、申し訳ないですよね」
誰にも聞こえないつぶやきの意味は明白。
待ってる間に届く会話は不可抗力だし。
そう自分に言い訳して、ボクは廊下の片隅で気配を殺した。
志望校とまではいかないが、あわよくば学部のヒントくらいは手に入らないかと。
だが次の瞬間、そんなボクの目論見を嘲うかのように会話のトーンが変わった。


「でも、木吉くんは化学強いからいいじゃない」
私、無機はともかく有機が弱くてと嘆く声に続く苦笑混じりの台詞。
「強いかどうかはわからないが、好きではあるかな」
先輩の答えに一瞬の間。
見ているわけでもないのに、相手の女の子がある単語に反応したのがわかった。
「…好き、って言えるのがすごいわ」

教科の話に混ざる意味深な響きに鼓動が跳ねた。
わずかににじみ出る、ためらうような甘さ。
おそらく同じ感情を抱いてるからこそわかる、隠された意味。

「私も、好きって言えたらいいのに」
どくんと心臓が走る。疑念が確信に変わった。
もしかして、いや…やっぱり彼女は、先輩のこと。
伊月先輩みたいに派手にじゃないけど、木吉先輩が人気があるのは知っていた。
騒がないぶん、本気な相手が多いことも。

「……私ね」

そのまま途切れる言葉に嫌な想像が止まらない。
木吉先輩は鈍いようで聡いから。
気づくかもしれない。気づかないかもしれない。
気づかない、ふり、をするかもしれない。それとも。
告白されたら、いったい。
巡る思考より先に足が動いた。



「失礼します」
素知らぬ様子で廊下から声をかけ、半分あいたドアをスライドさせる。
視界の隅で慌てたように振り返る姿。予期していた距離に、驚くふりで足を止めた。
「木吉せんぱ……あ、すみません」
お客さんでしたか。そう頭を下げれば「それじゃ私はそろそろ」と彼女は椅子から立ち上がる。
タイミングを失った告白は、きっとなされることはないだろう。少しばかり意地悪くそう望む。

夏服からのびた細い腕に二つ結びの長い髪が絡んだ、鮮やかなコントラスト。
ベッドに体を起こす先輩の腕と、対照的な華奢さに嫉妬めいた感情すら抱いた。
だってあまりに自然すぎて。
これが正しいカタチなのだと思い知らされるような光景。
「ああ、それじゃ。今日はわざわざありがとう」
木吉先輩の告げるさよならに、ほっと小さく息を吐く。
件の彼女はなんの疑いも持たず、ボクに会釈して病室を後にした。静かな摩擦音とともにドアが閉まる。




 

「…邪魔しましたか?」
なにのと告げずそう尋ねれば、先輩は太い眉をいつもよりもっと困ったように下げて。
「黒子、こっちにおいで」
ポンとベッドの横を叩く。いつも通りの仕草に、ちょっとためらってすぐに従った。
座った途端、伸びてきた掌に髪をかき回される。目を眇めれば、のぞき込むように笑って。
「黒子が邪魔だったコトなんて一度もないぞ」
来てくれて嬉しいくらいだと言われ、はねる心がちょっと後ろめたい。
「なら良かったです」
「うん」
大きく頷くと、先輩は再びがしがしと頭をなでる。注がれるまっすぐなまなざしが優しすぎて痛い。
本能的に下がろうとする視線を、意識して先輩に留めた。
灰褐色の髪と瞳。すんなりとのびた顎のラインと薄い唇。
外人っぽくも和風にも見える、不思議な造りだと改めて実感する。
だが、そんなボクを先輩も観察していたらしく。
「だけどまだ言いたいことがあるって顔だな」
「なんですか、それ」
不意打ちで核心に迫られて、唇がわずかに尖った。
わずかな変化を見とがめて、やっぱりなと細められるまなざし。

これだから嫌なんだ。ほかの人には通用する無表情が、なぜか先輩には見抜かれてしまう。
だめだと思いつつ、そらしてしまう視線。
これじゃ先輩の言うとおりだと白状してるようなものなのに。

「ん? 違ったか?」
「考えすぎです」
わざとらしいほど素っ気ない口調。
おかしいなぁと大げさに首を傾げられ、昔どこかで見た広告の犬を思い出す。ああ、まったくこの人は。
今更ながら、立ち聞きなんて真似をした自分が恥ずかしい。
どうかこのまま逃してほしい、せめて今日は。

「黒子」
「はい」
「くーろこ」
なんですかと目を上げれば、満面の笑みで広げられた両手。
さっきまでの会話は終わりと察し「おいで」の声より早く、ボクの体は傾いていく。
座ったままの先輩の腕の中は、それでもやっぱりボクを包み込むくらい大きくて。
ほのかな熱とさらりとした肌の香りに、はぁと小さく息を吐いた。
ゆるゆると肩の力が抜けていく。
すいと頬から肩を撫でられ、ボクは腕を持ち上げた。
もたれた枕と背中の間に差し込み、ぎゅっとさらに抱きつく。
まるで温もりに飢えた子供みたいだ、そう呆れながら。
木吉先輩はつむじにキスを落とし、応えるように腕に力をこめてくれる。

ああ、この場所が好きだ。誰にも渡したくないと、そう望むほどには。
本当ならここに収まるのは、華奢な背中がふさわしい。そう、あのクラスメイトみたいな。
でも、と腕に力がこもる。今、ここを許されているのは、ボクだ。ボクだけだ。
いったいいつの間にここまで我儘になったのか。
こんな自分もそれを許す先輩も、どうかしている。

思った矢先、爆弾は落とされた。

「汗が冷えてるな。どこか寄り道したか? たとえば…廊下とか」
含みのある台詞。気づかれていたのかと体がこわばる。
とっさに離れようとしたが、先輩の手は緩まなかった。それが答えだ。
「…………」
「くーろこ」
「……せんぱい、意地悪いです」
最初から、たぶんボクが入る前から気づいていて。その理由だってきっと、察していて。
「そうか?」
「なんで嬉しそうなんですか」
「うん。あのタイミングで入ってきたのは、黒子がヤキモチ焼いてくれたってことだからな」
耳元でささやかれる戯言に頬が熱い。
それは、言ってしまえば確かにそうなんだけど。
「でも黒子が気にするコトなんて、なにもなかったろ?」

気になります。先輩のことなら、どんなことだって。
口に出せないまま、シャツをつかむ指先に力がこもる。

「黒、子」
呼ばれ上を向けば重なる唇。
つま先立ちはしないけど、反り返る背中は変わらない。回され支えてくる掌も。

個室なのをいいことに、訪れるたび深くなるキス。
走る鼓動はどちらのものなのか。
キスや抱擁は、その先への予感を秘めていて。
いまだ進めないボクと先輩は、安堵と緊張の狭間にいる。いつも。

「…ん」
わずかに唇を開いて舌を誘う。
このまま溶け合えればいいのに。そしたらきっとなくなる、こんなみっともない不安も嫉妬も。
失ってしまう、怖さも。
名残惜しそうに離れていく唇。できたわずかな隙間に言の葉が舞う。
「ボクだって…」
「ん?」
「ボクだって嫉妬くらいします」
バレているなら誤魔化す必要もない。いっそ開き直った気分でそう告げた。
「不安にだって、なります」

初めてなのだから。
こんなに誰かを欲しいと思って、欲しいと思われたくて。

そっと顔を胸に埋め、くぐもった声で続ける。
「木吉先輩は、誰にでもやさしいから」
「そっか、黒子にはそう見えるのか」
「違うんですか?」
「オレは臆病なだけだよ」
他人を傷つけるのも失うのも嫌だから、最初に線を引くのだと。手に入れてないものなら、無くしても辛くない。
「それって…」
ボクもでしょうかとよぎった不安は瞬時に見抜かれ「気づかせてくれたのは黒子だけどな」と。

「本当に欲しいものが見つかったら、自分なんてだませないんだな」

鼓動と重なって聞こえる独り言のような言葉。
意味が肌に届くたび、耳が熱くなっていく。息が苦しい。

「オレは実は心が狭いんだ。いつだって嫉妬してる。…火神にも青峰にも、日向にですら」
「……なんで男ばっかりなんですか」
冗談めかして顔をパジャマの胸にすりつければ、ははは…と軽い笑い声が落ちてくる。
「いったろ心が狭いって」
自分の知らない時間、傍にいると思うだけで誰が相手でも許したくないと思う。
軽く笑い話みたいにはなすけど、嘘じゃないのは互いの腕の熱さでわかる。
「………ボクもです」
「ん?」
「いつも悔しかった。先輩たちには一緒に越えてきた一年分の繋がりがあって。ボクは入り込めないと」

なんだ、オレたちお揃いだな。
降ってくる苦笑めいたつぶやきが、それでも嬉しそうで。ボクはほっと上を向く。


盛大に生真面目な告白をしあった後の、くすぐったく面映ゆい変な空気。
出会った視線がそのままくすくすと笑みに変わり、も一度キスに変わるのに時間はいらなかった。



 


落ちてくるキス。

背のびしてばかりのボクは、きっといつまでもつま先立ちで。
それでもまっすぐ届くのは、先輩が背を屈めてくれるから。

でも、逆もまた本当で。

それがきっと、ボクと木吉先輩のカタチなんだと。




病院帰り。
見上げる薄闇の空は、先輩の髪の色をしていた。                                   THE END
              

ウィンドウを閉じてお戻りください



inserted by FC2 system