Turn  it  into  Love
                   (木吉先輩 誕生日SS)

 



「やっぱりボクは嫌です」
その日、黒子は不機嫌だった。

いや、正確に言えば不機嫌になっていた。


とはいえ朝起きたときはむしろ上機嫌で。忙しい恋人に久しぶりにあえるのが楽しみだったし、今日をどう過ごそうかとわくわくしていた。


「木吉先輩から緊急のメールは来てませんね」
朝いちで開いた携帯に、恐れていたドタキャンの連絡は入っていない。
次いで液晶画面を軽く叩けば、メールから切り替わる画面。
確認した自分のスケジュールは確かに真っ白で、ついでにいえば明日も同様だ。
「楽しみです」
わずかに口元がほころぶ。
今日は先輩の誕生日に一番近い休日で。当日ではないが、お祝いをしようと黒子は考えていた。
新学期始まって早々に先輩の予定を確認した時、はっきりとではないが会いたいとも伝えてある。

『そうだな。思い切り黒子とのんびりしたいな』
返された木吉先輩の思わせぶりな台詞をふと思いだし、軽く頬が染まる。
先輩の『のんびり』が言葉通りの意味じゃないことは、何度かの経験を持って知っているから。
「ボクも、です」
答えた声は上擦ってなかったろうか。
久しぶりなうえに誕生日とあっては、先輩の要求を拒める自信もなく。結果を見越して、数週間前からノートの手配を考え友人に代返を頼み、翌日もフリーにしてあった。
「……すこしばかり、用意周到な感は否めませんが」
でもこのくらい、そろそろいいかな、とも思う。
大学も3年となれば教養課程も終わり、理系はどんどん忙しくなっていく。学部も学年も違う黒子とはどんどん一緒の時間が減っていく。続けていきたいなら、照れて遠慮なんてしていられない。それが多少一方通行な感じがしても共にいられる時間は限られているのだから。

そういえば…。
黒子はふと考える。
最後にゆっくり過ごしたのはいつだったろう。
あいた時間で顔を見たりお茶したり、先輩だって精一杯融通を訊かせてくれているけれど。

「お正月は、一緒でした」
いくぶん微妙な気持ちで思い出す。
ようやく課題の先が見えたと寝不足気味に現れた木吉先輩は、年明けを待たず黒子を抱き込んだまま(ついでにいえば……したまま)眠りに落ちてしまったのだ。
「それから」
黒子の声が途切れる。あのあと、一緒に過ごした夜が思い出せない。
というか、そんなもの、あっただろうか。だって……。
「いやなこと、思い出しました」
すっと黒子の目が伏せられる。

忘れてたわけじゃない。忘れられるもんか。
ただ、考えないように記憶の片隅に蓋をしておいた出来事。
だが、いったん顔を覗かせた感情はどんどん大きく膨らみ、押さえていた分だけ黒子の気分を浸食していく。
しまっておいたはずの苛立ちや目をそらしていた諦めといった、不慣れな心たち。
それらは、閉じこめようとするほどに黒子の中に広がっていく。
そして。


「…………」
黒子はふうと息を吐き、携帯を再び開いた。
送信画面を呼び出せば、ずらりと並ぶ同じ履歴。そのほとんどが自分から木吉先輩に宛てたものだ。返信でなく先輩からきたメールなど、ここ最近はほとんどない。
「忙しいのは百も承知ですけど」
それでも、たまには木吉から連絡してくれてもいいんじゃないか。
そう思うのはわがままだろうか。
自分ばかりが必死で。自分ばかりが追いかけている。
そうじゃないと理性は言い聞かせてくるが、説得しきれない感情が黒子を支配した。

無言で並んだ無機質な文字を見つめる。


数分後、黒子はアドレス帳を呼び出した。探し出すのは、か行の欄。
数回の操作で発信音が響き始める。
コール三回をすぎたところで、相手とつながった。

「珍しいっスね、黒子っちから電話なんて」
「すみません、突然」
「いや、全然OKっス」
で、どうしたんスか、とどこか寝ぼけた声の黄瀬に淡々と口を開く。
「黄瀬くん、デートしましょう」
「へ?」
がばっと電話の向こうで起きあがった気配。ああ変わらないなとわずかに微笑んで。
「というのは冗談ですが」
「……黒子っち〜。心臓に悪いっスよ」
「わかってます。ボクも青峰くんに殺されたくありません」
黄瀬と青峰が高校あたりからつき合っているのを、黒子は知っている。代わりにという訳ではないが、こっちのことも知られているので、それなりに気楽な間柄となっていた。
さておき、と本題に移る。
「黄瀬くんも誕生日が近いでしょう? おごるんで今日遊んでくれませんか」
『も』と無意識に挟んだ言葉に黄瀬が反応する。
「オレより、木吉さんの方が近くないスか?」
「………」
「く、くろこっち?」
「いえ。それは、いいんです」
声のトーンが少し落ちたのに気づいてか、黄瀬の声が途切れる。
予定があればしかたありませんが、そう続ければ「昼間なら」と声が返ってきた。
「悪いんスが、夜は、ちょっと…」
「ああ、青峰くんですか」
話を聞けば、どうやら青峰が強化合宿から戻ってくるらしい。
そこまで野暮はしませんと、軽くからかってから時間と場所を決め電話を切る。続けて木吉あてに短いメールを打つと、黒子は携帯の電源を切り支度を始めた。


*****************


黄瀬が指定してきたのは、都内にある大型のスポーツクラブだった。
会員制で、ジムだけでなく様々なスポーツが屋内でできるというのが話題になり、世間に疎い黒子でも名を聞いたことがあるクラスの。つまり高額、そして超有名。

「オレ、ここの会員なんスよ」
一応有名モデルの端くれなんで、と黄瀬は入り口でパスを見せる。
「黒子っちはオレ紹介のビジター扱いっスけど、全然OKなんで」
「でもこれじゃボクがおごることになりません」
「なら、この後のメシでも」
黒子の抗議を流して、黄瀬はフロントを抜け更衣室に向かう。黒子の手にはぽんと渡されたビジター用ウェア。
「黒子っちのロッカーはあっち。出たところで待ってるから」
「わかりました」
楽しげな黄瀬の笑顔に、ここまできたら逆らうのも無駄と、黒子はロッカールームに向かった。買い物かお茶でもというぼんやりとした予定以外これという目的はなかったし、体を思い切り動かすのは、確かに気持ち良さそうだ。
青色のウェアに着替えると、黒子は弾んだ気分でフロアに踏み出す。
数メートル先、屈託ない笑顔で黄瀬が手を振っていた。

 

「やっぱり黄瀬くんはすごいです」
スカッシュ、バスケ、フリークライミング…と、ひとしきり回ると、二人はジムを見下ろす中二階のカフェに腰を下ろした。目の前にはグレープフルーツとミントの飾られたソーダ。さすがに空調の中とはいえ全てこなせば軽く汗ばみ、甘みの少ないそれをゴクゴクと飲み干す。
「でも黒子っちも、なかなかっスよ」
誉められ、まんざらでもない様子で黄瀬は笑う。
「黒子っちの攻撃は予想外な方向からくるんで、見てからじゃ間に合わないんスよね」
「通用するのは五本に一本ですけど」
「いやー、オレ、正直スカッシュであそこまで走らされたの、青峰っち以来っス」
「それは、……光栄です」
少しばかり照れてストローを吸い上げると、ズズ…っという音と同時に氷がカランと落ちた。
「やっぱ、おかわり欲しいスね」
「あ、黄瀬くん」
「二杯目はオレが出すから。黒子っちはそこに座ってて」
ひょいと立ち上がるとポーチを片手にカウンターに向かう。その背中を眺めながら、黒子はふぅと疲れきった足を延ばした。

「気を使わせてますよね」
勘のいい黄瀬のことだ。今日が何の日かも、自分の態度がいつもと違うのもわかっているのだろう。
だからなにも考えずにすむ、ここに連れてきてくれた。
申し訳ないとは思う。
思うが、こんな気持ちのまま独りでいたくなかったし、ましてや木吉先輩に会いたいとも思わなかったのだ。

甘えているなと自分でも思う。

初めて会った頃は、まさかこんな仲になるとは思ってもいなかった。
同じ中学のバスケ部で、高校では一応ライバルで。それなりの距離と親しさでつながる友人の一人にすぎないはずだったのに、お互い。
他人には言えない恋をしている。
それを知ったとき、知られたとき、生まれた安堵や不思議な親近感をなんと言えばいいのか。
自分だけじゃない、話せる相手がいる。その心強さ。
背徳の共犯者。
以前は自分の方が黄瀬から相談を受けていたのに、最近はすっかり黒子が頼ってばかりだ。


「でもま、そろそろ解放してあげましょうか」
時計は程良く夕刻を示し、青峰もそろそろ帰ってくる頃だろう。久々の二人の時間に乱入するほど無粋ではない。
無意識に開く画面。最後に送ったメールは先輩宛で、今日のキャンセルを伝えたもの。
「……少しは、寂しがってくれたんでしょうか」
口にするものの、そんな姿は思いつかずため息となる。

残念だとは思ってくれただろう。
がっかりもしたかもしれない。
でも。

はぁ、と空になったグラスをみつめる。
なにをしてるんだろう、自分は。こんなところで。
一人で意地になって、から回って。
「馬鹿ですね」
つぶやいた言葉は、氷とともに静かに溶けていった。


うつむいたまま、ぼんやりと座るテーブルに陰が落ちる。
黄瀬が戻ってきたのかと顔を上げ、予想外の姿に、らしくなく束の間声を失う。
「よう、テツ。ひさしぶり」
「……あ、青峰くん?」
驚きに開いた瞳に、青峰の背後で肩をすくめている黄瀬が映った。


**************
 

「めんどくせーな、おまえは。オレがいいっつってんだから、いいんだよ」
大雑把な青峰の台詞とともに、三人での飲み会が決まったのは出会って間もなくのこと。
どの店がいいだの、なにが食べたいだの。ボクがおごります、いやオレが、と飛び交う会話に再び青峰が切れて、好きなものを買い込んで黄瀬の部屋に向かうことになった。
途中立ち寄ったデパ地下で和洋中と雑多な食べ物を買い込み、マンション近くのコンビニで飲み物を調達する。

黄瀬が独り暮らしを始めたマンションになだれ込み、皿など出す暇もなく宴会が始まった。
食べ盛りは過ぎたとは言え、さすがに運動後の男三人(とはいえ黒子はあいかわらず戦力外だったが)の手にかかれば、山盛りだった肴もあっと言う間に消え。テーブルの上には、コンビニで追加した乾きものが並ぶばかりとなった。

「あー、食った食った」
「オレ、あした粗食にしないとヤバいっス」
「とか言いながら、その手にしてるのはなんですか? 黄瀬くん」
「いや、やっぱワインにはチーズじゃないスか」
「てか誰だよ、どら焼きとか買ったやつ」
「ボクです」
「テツ?」
「はい。甘いもの食べたくて」
素っ気なく答えながら黒子はぱくりとかじりつく。
何となく手にしていたそれが、誰のためのものだったのか気づいてしまって、わずかに苛つきながら。
「うえぇ…。よく、甘いもん飲みながら甘いもん食えるな」
「お茶の方があいますが、そう悪くもありません」
言いながらすぐ傍の缶に手を伸ばし、ぐいと流し込む。甘い梅酒風味のソーダは、お酒に弱い黒子の専売特許だ。
が。
「あ、ああ! 黒子っち、それ…」

黄瀬の声と、アルコールが喉を焼く感覚はほぼ同時だった。
こほこほとむせ、手にした缶をまじまじと眺める。とても良く似た、別の缶。小さく『アルコール5%』と『お酒』の文字が見て取れた。どうやら並んで置いてあった別の缶を掴んだらしい。
「ああ、わりぃ。それ、オレんだわ」
「青峰っち?」
黄瀬の目が細められる。普段甘い酒など飲まない男が、今日に限って買うなど、疑わない方がどうかしている。
「アンタ、こういう甘いのダメだろ?」
なに企んでるんだと目で問えば「テツのためだって」と肩をすくめる。ささやき会う二人の視界の端では、一気に頬を赤くした黒子が、それでも缶を握ったままだ。
「なにが黒子っちのためなんスか」
「どーせ、コイツのことだから、なんかため込んでんだろ」
「だと思うスけど」
「だったら吐き出させりゃいい」
「んな簡単な話だったら、困んねえよ」
「おまえに連絡してきたってことは、そうなんじゃねえの?」

「なーに、ふたりで いちゃいちゃしてるんですか!」
ドンと缶をおく音に振り返れば、さっきとは違うチューハイを手にした黒子の姿。
あれ、と床をみれば本物の梅酒ソーダはすでに空になって転がっている。
「く、くろこっち、そんな飲んだら」
「うるさいです、きせくん」
ボクだってのみたいときくらいあります、と続ける言葉はすでにろれつが回っていない。
「だよなぁ」
無責任な青峰の相づち。わずかに眉をひそめる黄瀬の前で、黒子は缶を握りしめたまま、うんうんと頷いている。
「で、テツはなんでそんな飲みたいんだ?」
「よくきいてくれました あおみね、くん」
「目ぇ、すわってるっスよ。…黒子っち」
ぼそりと落とされた黄瀬の台詞はスルーで。

「わすれられたんです」
「ああ?」
「わすれられたんです、たんじょうび、ボクの」
ひどいです、と唇を尖らせる顔は普段の姿からは想像できない幼さで。
忘れた相手が誰か、などと訊くまでもない。
一瞬呆気にとられた黄瀬と青峰は、ほぼ同時に口を開いた。
「テツの」
「黒子っちの、誕生日って、たしか一月」
「さんじゅう、いちにち、です」
「え、でも、その頃って」
まがりなりにも大学に籍を置く二人は、頭の中で記憶をたぐる。
「わかってます。いそがしいんです。しけんとか、れぽーと、とか」
進級がかかる時期。理系なら並行して実験や実習も続いているはず。
「でも、……あえなくても、メールとかでんわとか」
「いや、それも」
おそらく多忙すぎて、誕生日自体失念していたのではないか。フォローしたいが、黒子の表情がそれを許さない。
「いーですよね、きせくんはぁ。こーやって、おいわいしてくれる、ひとがいてー」
ぶつぶつと呟きながら、テーブルに突っ伏す。
先が赤くなった指が缶チューハイから離れた。

「まさかとは思うけど……それだけで拗ねてたんスか?」
「それだけって、なんですか!」
だけじゃないですよ! 絡む口調は完全に酔っぱらいのそれだ。聞く耳持たない勢いは、普段感情を表さない黒子とはうって変わって。
「ああ、これか。…木吉さんがいってたの」
青峰が以前言われた『黒子に酒を与えるな』の真意を悟る。が、すでに遅かった。

「たんじょーび、ですよ! たんじょーび!」
伏せたまま、ばんばんとテーブルを叩く。
「つきあいはじめた、ころはぁ、おまえが、うまれてくれてうれしいとか、いてくれて、よかったとか」
「……うわ、そんなサムいセリフ」
とても真顔で吐けねえ、青峰は大きく肩を落とす。
「オレ、木吉さんをある意味尊敬するっス」
「オレもだ」
小声で語り合う二人をシカトして、黒子の声は続く。
「なのに、さいきんはずっと……ボク、ボクは」
「くろこ、っち?」
不意に途切れた愚痴に、黄瀬たちの視線が動く。と、その先にあったのは顔を上げ、ほとほとと涙をこぼす友人の姿。
「ボク、もう、あきられたんです」
「はぁ?」
「ちょ、なんでそこまで話が飛ぶんスか?」
「いいんです。わかってます」
鼻をすすり上げると、黒子は両手で顔を覆った。
「どうでも、いいから、だから。きよし、せんぱいは、つ、つめたいんですっ」
「なに言ってるんスか」
自分たちがみる限り、黒子にベタ惚れなのは木吉の方だ。何度となく牽制された体験がそれを疑わせない。
「んなこと、絶対ねえわ」
「そうスよ。黒子っち、考えすぎっス」
バスケですらあそこまで食らいつく相手が、そう簡単に変わるとは思えない。しかも、対象は頃子なのだ。ありえない。そんな半端な執着じゃなかったと。
だが。
「きせ、くんたちはっ、しらない、から」
えぐえぐとしゃくりあげながら、黒子は話し続ける。

今までずっとため込んでいた不安。
いったん口にしたら、それはもう、まるで事実で。
黒子の気持ちをどんどん暗くさせていく。

「…よしせんぱ…は」
「今度は泣き上戸かよ」
青峰の呆れた口調に、きっとまなざしが上がる。負けず嫌いは酔っても健在らしい。
「きよ…せんぱいは、それはもう、きりかえがはやいんです」
溢れそうな涙を抑え、今度は早口でまくし立てる。
「切り替え?」
そんなタイプに見えないと黄瀬は首をひねった。
そんな簡単な性格なら、膝を痛めた段階でバスケをやめていたはずだ。
黒子の考えすぎだろうと笑い飛ばしたい。が、一方で黒子が人間観察を趣味とし、その分析を赤司も評価していた事実を思い出す。
「でも、あの…木吉さんだろ?」
どうやら青峰も同じ想いらしく、眉を顰めたまま。

「しんじてませんね。そうでしょう、ボクだって、きづいてませんでした…けど」

確かに木吉はぎりぎりまで、本当にぎりぎりまで食らいつくし、可能性がある限り諦めない。
だがその一方で、限界を超えたと見極めると、するりとその身を翻し、別の方向に歩き出せるのだ。
執着と柔軟性の混在。
でなければあんなプレイスタイルは身に付かない。

「そんな、へんなとこまで、てっしん、なんですよっ」

いったん線を引いてしまえば、未練など残さず割り切ってしまう。
引きずらない。
『あの時は楽しかったな』
そう笑えてしまう男なのだ。

「だ、から……っ」
「……誕生日一回、忘れられたくらいで、よくそこまで思いこめるっスね」
「きせく、んには、わからないで、す」
木吉先輩は青胸くんほど単純じゃないんです。
「テツ、てめえ、さりげに毒吐きやがったな」
「まあ、アンタが単細胞なのに異論はないっスけどね」
「ああ?」
「ほらー、そうやって、またっ、いちゃついて」
「うるせえよ、酔っぱらい!」
ゴンと、ついに青峰の拳が黒子に落ちる。
「いたっ! いたい! ひどいです、ぼーりょくはんたい」
「あー、もう、めんどくせえ! そろそろ出てこいよ」
そこに、いるんだろ?

青峰の声とほぼ同時に、がちゃりと廊下に続くドアが開いた。
ふわり冷えた空気とともに、のほほんとした気配が部屋に入ってくる。
揺れる、灰褐色の髪。


「遅いっスよ」
冷蔵庫に向かいがてらオートロックを開けてから、十分近く経っているのだ。どう考えても黒子の話を立ち聞きしていたとしか思えない。黄瀬の瞳がわずか細められる。
「マジ、おせえよ、木吉さん」
青峰のぼやきに、当の本人はいたってさらりとした様子で。
「すまん、すまん。少しばかり、準備に手間取ってな」
「準備?」
黄瀬の問いかけをさらりとスルーして、木吉はゆっくりと三人の方に歩み寄る。
「きよ、せんぱ…っ?」
きょとんと目を見開く黒子は、本当に子供の表情。
なんで先輩がここにいるのか、そもそも現実なのかも理解できていないんだろう。

「な、んで……せんぱ、ここ…に」
「んー、なんでだろうな。どう思う、黒子」
「どう、って…そんなの、しりません」
あやすようにのぞき込む瞳が、黒子の様子を探る。
「缶チューハイ、二本ってところか」
「ああ、そんなもんだな」
「そりゃ迷惑かけたな」
ぴたりと言い当てる木吉に、ああ黒子っち苦労するっスねと黄瀬は心で呟く。
「言いたいことは色々あるが、ともかく帰るぞ、黒子」
木吉の大きな手が、座ったままの黒子の腕を引く。が、黒子は「いやです」とそっぽを向いたまま。
「せんぱいとは、かえりません」
「くーろこ」
「ほっといて、ください。ボクのことなんか、どうでも、いいくせに」
「誰もそんなこと言ってないだろ」
「……いわなくても、わかります。あ、あんな、ほったらかしで、ボクばっかり」
「うん。その件はオレが悪かった」
だから帰ろうと、かけられるセリフを黒子は撥ねつける。
「しりません! せんぱいなんか……もう」
「もう?」
引っ込みがつかないほど強情に言い張る黒子に、木吉の気配が僅かに変わった。
口を挟めないまま見つめていた黄瀬は、背筋にぞくりとした感覚を覚える。
だが当の黒子は気づきもしないで。

「もう、いいです! いまさらこいびとづら、しないでくださ……ん、んっ」
「あ」
「うお」
一瞬の沈黙ののち。
奇妙な声だけが重なって部屋に響く。
不意に展開された光景に。

つまり。
木吉はごねる黒子の首筋をつかむと、うるさいとばかり強引にその口をふさいだのだ。
もちろん、唇で。


「ん、んむ、……ん、んぅ…っん」
驚きと羞恥で黒子が抵抗するが、体格差は歴然としている。しかも一方は酔っぱらいだ。
抵抗していたはずの腕が、背中を殴り、すがり、あげく力なく落ちるまでにさして時間はかからなかった。

 

「ん、……は、はっ…は、あ…っ」
塞がれていた呼吸を取り戻そうと、黒子が胸を喘がせる。
とろんとした瞳と下がったままの腕は、まだ意識がはっきり戻らないことを示している。
「違うだろ、黒子」
恋人ヅラじゃなくて『恋人』なんだから。
やさしく言い聞かせてるはずの台詞。怖いと思うのはどうして。
でも、その怖さは甘くて、黒子の耳から毒のように全身に拡がっていく。


一方。
目の前で展開する出来事に、青峰も黄瀬も言葉を失いまともに反応できず。
木吉の横顔は笑顔のはずなのに、逆らうまいと思わせるには十分で。
改めて、食えない男だと評価を下す。

「こ、いびと」
ぽやんと答える黒子は酔いのせいか、ただ素直に見上げていて。さらに落とされる低めの響きに身を震わせるばかり。
「そうだろ? 黒子にとっては違うのか?」
そうだと悲しいな。さらりと言い放つ男に、二人顔を見合わせた。
「なんつーか、さすがっスね」
「テツも苦労すんな」
あれが飽きた男の姿だなどと言われても、誰も信じないだろう。むしろ獲物をねらう狩人のようだ。じわりじわりと退路を断ち、その腕の中に逃げ込むしかない程に追い込んで。
「ジ・エンド……っスかね」
「あれじゃ、かないっこねーだろ」

動けなくなった黒子の耳元で数言、小声でささやく。かすかに頷いた黒子にほほえみかけると、木吉はそのままぐったりとした体を抱きあげた。
「迷惑かけたな。今日はありがとう、黄瀬くん」
穏やかな笑みに、黄瀬はひらひら手を振ってみせる。対応を間違わなかった自分を心で褒めながら。
「ひとつ貸しで、いいっスよ」
「はは、そりゃ怖いな」
どっちが…と、視線だけ天井にとばす黄瀬。その横から青峰が立ち上がり、木吉の胸ポケットに何かを滑り込ませた。
「今からじゃ、電車も無ぇだろ」
言葉にちらりと確認すれば、ホテルのカードキー。見える名前は一流といっていい部類で。
「大通りの角。オレの名前でチェックインしてるから」
「……使わないのか?」
後ろで座る黄瀬に目をやりながら、木吉は意味深に問いかける。
「一晩くらい譲るさ。……誕生日なんだろ」
にやりと笑う青峰に「じゃ、ありがたく」と、軽く会釈をして木吉は部屋を後にした。
黒子を横抱きのまま、廊下を抜けドアの向こうに姿を消す。

玄関にあったはずの黒子の上着や靴が、いつの間にか、きれいさっぱり消えていることに黄瀬が気づいたのは、翌朝になってからだった。


**************
 

抱えられてることも、運ばれてることも、ちゃんとわかってた。
先輩の態度がいつもと違うのも、しらない場所に向かってるのも。
だけど、全てがゆらゆらと億劫で。
流れ出た感情の後の、ぽっかりと空いた狭間に浮かんでいるのは、心地よくて。


「くろこ、着いたぞ」
ふわりと降ろされ、背中に感じる柔らかな肌触りに瞳を開く。
飛び込んでくるのは案の定、映画のセットみたいな壁や天井。
綺麗すぎて嘘くさい世界。

「ここはぁ?」
自分の声がまだ遠くに聞こえる。甘ったれたしゃべりかた。
全部ぜんぶ、現実とは思えない。
「ホテルだ」
「ふぅん」
ぼんやりとだけど青峰くんと何か話してたのは、覚えてる。
そっか。ホテル。じゃ、エッチするのかなぁ。
考えながらころりと横を向く。酔った後の眠気が襲ってきて、瞳は半分虚ろなままだ。
さらりと冷たいシーツが気持ちよく、体から力が抜ける。

「くーろーこ。こら、寝るなって、黒子」
「んー…」
「おまえ、それはないだろ」
勝手に悩んで、勝手に怒って、勝手に寝るな。
届いた言葉に、眠いながらもムっとする。
「かって、な、のは、……んぱい、じゃ、…ないです、か」

ボクばっかり悩んで、ボクばっかり好きで。

意識に浮かんだ怒りが、眠気を凌駕する。
そうだ、いまいわなきゃ、もういえない。
「じぶんがなにしてたって、ほっといたって、ボク、が、ずっといるとかおもって」
「思ってない」
「うそつき。たんじょうびも、わすれてたくせに」
ぐるりと寝返りをうって先輩に向かい合えば、困ったような笑っているような顔。
「うん、それはオレが悪い。100パー、悪い」
「……ほんとーに、わかってます?」

ボクがどれだけ寂しかったか。
当てもなく待つ時間が、どれだけ長かったか。

「だから今日、我慢してただろ」
「え?」
誕生祝いをほのめかされ、自分が忘れていたことに気づいた。
今更謝るにも遅すぎ、祝うにも間抜けすぎるタイミング。焦っていたところにキャンセルのメール。
「で、すぐあとに黄瀬くんからメールが来た。ああ、怒ってるんだなとわかったよ」
だから待とうと。
黒子が待った時間だけ、丸一日、ひとりで部屋にいた。そう笑う。
「あんなに待つだけの時間が長いなんて、思わなかった」

知ってたはずなのに。
誰かを待つ甘苦い時間も、期待が裏切られた寂しさと諦めも。
幼い頃から知っていたはずなのに。
「ああ、黒子に甘えてたんだなって、わかった」
すまなかったな、と。

木吉の告白に、黒子は唇を尖らせる。
「ずるい、です。せんぱい」
そんな風に頭を撫でられたら、怒ってる方が悪いみたいじゃないか。
「うん。オレはずるいんだ」
黒子を手放さないためなら、どんなにも狡くなれる。

言葉尻を捕らえ、すりかえてくる男。
怒ってたのは自分なのに。怒っていいのは自分のはずなのに。
なんでか、追い詰められてる気分になって。

「だからっ! そういうのが、ずる…ん、んっ」
抗議はそのまま飲み込まれる。吐息とともに。
それ以上の会話は必要ないと、ねじ伏せてくる熱。
この熱さの前には、どんな疑いも溶かされるしかない。
欲しい、と。離さないと。細胞全てに刻まれるようだ。

「……き、よ…せん、ぱ……っ」
呼ぶ声が遠い。
こんなに近く、肌は触れ合うのに。

「正直、これからもっと一緒の時間は減ると思う」
静かに落とされる声に、こくんと頷く。
わかってる。先輩が望む医師になるためには、これからもっと忙しくなることは。
「寂しくさせることも、不安にさせることもあるだろう」
でも覚えておけ。
「オレは、この手を離してやるつもりはない」
「……」
見下ろしてくる強い瞳に射抜かれ、息が止まる。
「逃がす気もない」
どくどくと走る鼓動は、いったいどちらのものなのか。

「黒子が思ってるよりずっと、オレは狭量だからな」
覚悟しておけよ、と。
脅すようなセリフを甘い響きとともに。
「のぞむところ、です」
覆い被さってくる木吉先輩の熱を全身で受け止めながら、黒子はまっすぐな瞳で、そう笑った。

 


カチャリ。
ベッドボードの時計が、真夜中十二時を刻む。

抱き合ったまま互いの吐息の中で迎えた誕生日は、理性も正気もない、甘い一日の始まりだった。








 

 


ちなみに。
黒子を寂しく待っていた、はず、の日曜。
木吉が、実は大学に赴き。
翌日を空けるため実験を交代し、代返やノートを手配していた事実。
……は、誰にも知られていない。
 
                                    THE END
              

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