誕生日はいつも雨
                   (注:黒子が梅雨の精霊というFTです)

 さあああぁ……。
閉じた障子の向こうから届く雨音に、オレの意識はゆるやかに眠りから浮上した。
ぼんやりと開く瞳に映るのは見慣れ過ぎた天井の木目。何十年もの時を過ごしたこの部屋を、柔らかな雨音が包み込む。
「ああ、そうか」
瞬きも億劫な視線を壁のカレンダーに流す。
6月10日。そろそろめでたくもない誕生日が、今年も律儀にやってきたのだ。

もう15年近く、この日は必ず雨。
明け方から絹のような水滴が空から降り注ぎ、いちにち濡れ縁の傍で静かな音色を奏でる。夕暮れには弱まり虹が見えるが、けしてやむことはない。
気象庁がこの地域を調べれば特異日だと判断しかねないほど、それは毎年恒例で。でもきっとどんな理由を探しても、本当の原因はわからないだろう。
それは、当たり前に受け入れているオレにも、説明などできない出来事なのだから。


オレ、木吉鉄平が『彼』に出会ったのはまだ高校生の頃だった。
名も実態も持たず、雨の庭に立つ人ならざる者。水色の髪と透けるように白い肌の彼は、雨に溶け込みながら濡れることなく。ただ、そこに居た。
幽霊かと思ったが、紫陽花のように変わる瞳はあまりに無邪気で。精霊のような梅雨を運ぶ存在だと知った頃には、すっかり彼の存在に馴染んでいた。
人と接するのが初めてだという彼はとても臆病で、なのに好奇心は旺盛で。梅雨の時期になれば雨音とともに訪れ、夏の声とともにふわりと消えていく。

歳月が過ぎ、オレは大学生になり社会人になった。ともに暮らしていた祖父母が他界した時、ひとりこの家で暮らすことを選んだ。
その間も何一つ変わることなく、彼は梅雨になればオレのもとにやってきた。
自分と違い年をとらぬ姿にやはり違う次元の存在なのだと思い知らされながら、オレは彼と過ごす時間を楽しんでいた。
もちろん人並みに友人もいるし、彼女と呼べる相手がいたこともある。だが、そんな日々の中でも彼と過ごす時間は特別だった。他人と交わる事に疲れた心に、穏やかな安らぎを与えてくれた。

6月の声を聞けば、彼のために和菓子を買い庭を整えて雨を待つ。
テツヤとオレが名づけた彼は、そうしていつしか大きな存在になっていた。
彼だけが、オレの世界の中にいた。



遠く雨音を聞きながら、オレは朧な意識の中でテツヤの姿を思い浮かべる。
まだ明けやらぬ空の下。あの少年はきっと庭石に腰を下ろし、しっとりした葉を揺らす紫陽花を眺めていることだろう。唇の端をかすかに持ち上げるだけの淡い笑みすら、鮮やかに脳裏に浮かぶ。
会いたいなぁ。
思うが体はいまだ遅くに落ちた眠りの中で、うまく動いてくれない。
まあいいか、と再び襲ってくる睡魔に身を任せながらオレは心で呟いた。
この雨は朝までやまない。もう一度目覚め雨戸を開ければ、きっとテツヤはそこにいるだろう。まるで昨日までそうしていたかのような自然さで。
そして透きとおった声がオレの名を呼ぶのだ。鉄平さん、と。
それは途切れない約束のように。

◆◇◆◇◆

「ははは。それは大変だったな」
「笑い事じゃありません。ほんとうに焦りました」
庭に面した縁側に腰掛け、テツヤはぷぅと頬を膨らませる。今年は梅雨の入りがいつになく遅かったなと、世間話程度に問いかけた答えがこの顔だった。

テツヤが訪れたとはいえ会社を休むわけにもいかず、珍しく定時に退社して家路を急いだ。弱まる雨に一日気もそぞろに仕事をこなし、家にたどり着いたのは夕刻で。
玄関を開ける前に庭を覗けば、躑躅の花を揺らす白い手が見えほうと息を吐く。久しぶりにゆっくりと会う彼に心がほぐれ、ああ疲れていたのかとふと気付いた。
右手に抱えた和菓子屋の包みを掲げて声をかけ、玄関を開ける。
おじゃましますと頭をさげ入る姿は、昨日もそうしていたかのように目に馴染んで。そうして決まり事のように、オレの食事や風呂といった日常が終わるのを、テツヤは庭を臨む縁側で待つのだった。

「まったく、しょうがないヤツなんです」
例年ならとっくに移動している大気が留まり、邪魔されて近づけなかったのだと薄紅の唇が言葉を紡ぐ。オレにしか届かない、不思議な響きで。
「異常気象っていってたからな」
「ボクに言わせれば図々しいだけですけどね」
テツヤは梅雨を運ぶというが、好き勝手にできるわけでないらしい。
偏西風や高気圧といった天気予報の中でしか聞かない乾いた単語が、テツヤの口から出てくると生き生きとした存在に変わる。本当に不思議だが、それが彼の世界なのだ。
「怒って食べると、せっかくの葛ざくらが泣くぞ」
「そうですね。やっと食べられるのに」
言いながら、オレが会社帰りに買ってきた和菓子に手を伸ばす。初めて言葉を交わした日から、この菓子はテツヤのお気に入りだ。
乏しい表情は変わらないけれど、それでも最近は随分豊かになったと思う。違う世界で生きているはずなのだが、こうしていると人間となにが違うのか判らなくなってくる。
菓子を口に運び、語り、かすかにほほ笑む。
精霊といったものはそういうものなのか、ふと疑問をこぼせば少しばかり考え込んで。
「他では、こんな風な姿を保つことは難しいんです」
それどころか油断すると消えそうになるのだと、細い眉をしかめた。

テツヤにいわせると、この家が大地や自然の気を濃く残した特別な場所だからだそうだ。が、他の場所での彼を知らないオレには実感がない。ただ「そうか」と頷くだけだ。
「ボクたちはもともと実体など無いモノです。風とか雲とか、そんなふうに流れる出来事に近いのだとおもいます。ただそこにいつからか意識が生まれて、自分が『居る』というのがわかりました」
「意識としてはえらくハッキリしてるけどな」
「それは鉄平さんがボクをボクとして見ているからです。ボクたちは自然の気を映し、人もまた自然の一部ですから」
「それじゃ……たとえばだが、オレが居なくなったら?」
問いかければ、つかのま小首を傾げ。
「そうですね、たぶん以前のふわりとした状態に戻るんでしょうね。雲と一緒に風に乗って」
ただ、と小さく息が零れる。
「いまでも……街ばかりを移動してると、どんどん希薄になるみたいです。昔はこんなこと、無かったんですけど」
言葉に窮し曖昧に頷けば、柔らかに煙る瞳がオレを見据える。隠しきれない不安を読み取ったか「でも」と。
「大丈夫ですよ。消えたりしません」
鉄平さんがここに居てくれるから。添える言葉は明らかにオレを気遣ったもので。
「そっか」
気取られた事実にいささかぎくりとしながら、オレは青い髪をなでる。基本的に人に触れようとしないテツヤが、唯一許す儚いふれあい。
濡れているわけではないのにひんやりとした髪は、いつも彼が自分と違う生き物だと教えてくる。
その……人の感情などと遠い場所にいたはずの彼が、人間であるオレの感情や心を察する。それは正しいことなのかどうか。漠然とした不安はよぎるが、答えなど見つかるはずもない。

「いただきます」
言葉少なに向かい合い、はくりと葛を口に運ぶ。
嚥下する喉。透き通るように白いそれが今日は妙に艶めかしく、オレは視線を強引にそらした。
そんな気配を知ることもなく、彼は無邪気な瞳をオレに向ける。すぎる年月の間に色を増したそれ。
雨の音が耳の奥に響いた。


「ほんとうに間に合ってよかったです」
「ん?」
うん、と大きく頷きながらの言葉にオレは微かに眉をひそめる。その表情が面白かったのか、テツヤはふふっと綻ぶ蕾のように笑って。
「誕生日なんでしょう?」
「……よく覚えてるな」
「忘れませんよ。だってたったひとつの日ですから」
人が作った暦などに左右されない彼が、唯一覚えた大切な日付。
「ボクは気づいたら居たので生まれるという感覚は判りませんが、鉄平さんがここに居てくれるのはとても嬉しいです」
「そっか、ありがとうな」
真っ直ぐな台詞にすいと視線が下がる。
「なんでそんな顔するんです?」
誕生日というのは楽しいものではないんですか、問われ知らず苦笑が漏れた。
「楽しい、か……うん、そうだな、楽しいんだろうな……きっと」
「鉄平さん?」
煮え切らない声はまるで問いの誘いだと、判り切ったまま唇を閉ざす。
問われたいのか、流したいのか。透明な声で名を呼ばれ、ああなんてことだと自分の中の甘えを突きつけられる。今日という日に、彼が傍にいることがどれだけ自分を保たせているか。
「……少しだけ、話を聞いてくれるか?」
オレは甘えているのだ。目の前の彼が『人』でないことに。
誰にも……祖父母にも友人にも、母にすらも言えなかった不安を、この世界と関わりがないという理由だけで告げようとしている。そしておそらく、彼が拒まない程度にはオレと関わっているという理由で。
人の狡さを知ってか知らずか、テツヤは表情一つ変えぬまま「いいですよ」とまっすぐな瞳を向けてくる。
「ボクでいいなら、いくらでも」
硝子窓の向こうで濡れた葉が風に揺れる。
すっかり暮れた空には、陽の射し込む隙間などどこにもなかった。

◆◇◆◇◆

「今日でオレは34歳になった。オレの父親が死んだのと同じ年だ」
ぽつぽつと落とす言葉をさえぎることなく、テツヤはただ静かに座っている。
押しつけがましくなく、ただひとつひとつの響きを抱きしめて。それは天から降り注ぐ滴が、ただありのままの世界を包むように。
「正直、あまりはっきりした記憶は少ないんだ。まだ幼稚園の頃だったし」

ただひとつはっきり覚えているのは、園で友達とけんかした日の出来事。
その頃から年の割に大きかったオレは、それなりに活発で、喧嘩をしてもやはり強かった。殴ってきたから叩き返した。だけど原因が向こうにあっても、結果怪我をさせてしまえば責められるのはこちらになる。
体が大きくて乱暴なんだからと大人に言われれば、まだ反論できるほどの言葉も持たなくて。
悪くない。少なくとも一方的に悪いわけじゃないと、思うのに伝える術もなく、ただ頭を下げる母を見ているしかなかった。
「おおきいのなんて、ちっともよくない!」
泣きながらどうにか伝えた言葉を、父は「そうか」と頭を撫でながら聞いてくれた。そして「だけどな」と正面から見つめて口を開いた。
「体が大きいのは損なこともあるかもしれない。でも、かみさまが鉄平にくれた贈り物じゃないか」
「そんなおくりもの、いらないよ」
どこにいても目立つし失敗すればたくさん笑われるしいっぱい怒られるし。いいことなんてひとつもない。
泣きながら八つ当たりするオレの、その手をぎゅっと握ると父は静かに問いかけてきた。
「大きな手や体は、何のためにあると思う?」
「え?」
「大きな手はたくさんものを掴めるし、大きな体や強い力は怖いものと戦えるだろ?」
にこにこと笑いながら問われ、わからぬなりに父の次の言葉を待つ。
「鉄平は気持ちの優しい子だから。だから大切なみんなを守れるように、鉄平より弱くて小さなモノを守れるように…そのために神様がくれたんだと父さんは思うぞ」
それは誰のどんな慰めよりまっすぐオレの心に届いて。
「まもる、ため?」
「そうだ」
「とうさんが、おおきいのも、だれかをまもるから?」
「ああ、そうだな。母さんや鉄平や、みんなを守りたいと思ってる」
「そっか」

子供など単純なもので。守るために大きく生まれついたのだと、信じてしまえばいろんなことが我慢できるようになった。
自分が変われば周囲も変わる。いつしか自分への評価は大きくて乱暴な子から、大人で頼りがいがある子に変わっていた。
それがまた子供心に誇らしく、オレはそうして思い込んでいったのだ。大好きであこがれだった父親と、同じように誰かを守るんだと。
「大きな、本当に大きな背中でな。オレはいつも父さんみたいになりたいと思ってた」

だけどその数ヶ月後。父はあっけなくこの世から逝ってしまった。
飛び出した子供をかばっての事故だった。
本当に父さんらしい勇敢な行動だと、焼香に来た誰しもが褒めたけれど母さんは頷くことなく。ただ泣きはらした目で空を見つめ続けていた。
「馬鹿よ、あのひとは」そう夜中に母が泣くのを何度も見た。
みんなを守ると言いながら、自分自身を守らないで逝ってしまった父。
「今度はオレが、父さんの代わりに母さんを守らなきゃ、そう思ったんだ」
今考えれば、幼く思い上がった決意。それでも、小学生だったオレは必死でそうしていた。そのつもりだった。後ろ指をさされないよう、必死で頑張って。
早く大人になって母を楽にさせたい。もう一度安心しきった笑顔が見たいと。
「だけど人間って逞しいんだよな」
オレが中学に進学する直前、母は勤め先で出会った人と再婚しアメリカにと旅立ってしまった。一緒に向こうに行こうと誘われたが断った。もう母に自分の手は必要ないのだと判ったから。
「今思えばショックだったんだろうな」
体が大きいだけじゃなにも守るなんてできない。自分が好きになれなかったあの頃。いっそ小さければよかったのにとすら思った。誰にも言えなかったけど。
「それから……祖父ちゃんたちと住んで、バスケ初めて」
バスケを始めてすこし自分が好きになれた。守ろうとして守り切れなかったこともあった。悔し涙も嬉し涙もたくさん流した。それでも誰かを守ろうと生きてきて。

―――そうして今日、死んだ父と同じ年になった。


「気にしてるつもりはなかったんだけどな」
同じ人生を歩んでいるとは思わない。つもりもない。だが、どこかで抜けない棘のように、この年齢が自分の心を縛りつけている。
父の年を越え生きている自分を想像したことがないからだろうか。どうしようもない不安がいつも付きまとう。
理性では馬鹿なことを考えているのは理解している。だけどどこかでずっと、自分も父と同じころに逝くのではないかと感じていた。
ならばと無意識にブレーキがかかり、誰とも深い関わりを持たずに生きてきた。そうやって、気づけば父を越えようとしている。
このまま生き続けていくことは間違っていないだろうか。逃げているのじゃないのか。果たさねばならない何かから、目をそらして。

「鉄平さんは、守ってくれてますよ」
望んでいた答えを、淡い唇が紡ぐ。口に出せないオレの思いを映すように。
「鉄平さんが見つけてくれたからボクはここにいる。ここを残してくれているから、ボクは形を保っていられる」
それでは足りませんか?
淡い髪がさらりと流れ、彼は小首を傾げたまま瞳を伏せる。
「鉄平さんがまもりたいという、その範疇にボクは属さないモノかもしれないけれど」
「テツヤ?」
予想もしなかった、あまりに人間的な独白。オレはかける声すら思い出せず、ただ目の前の少年を凝視する。
その視線に何を読み取ったのか、テツヤはふわりと闇にとけそうな笑みを浮かべ「守ってくれています」と、もう一度。
「あなたが名づけてくれたから、ボクはボクとして……テツヤという形で存在できたんです」

名をつけるということ、名を与えるということ。
それがどれほど大きな意味を持つのか、その時までオレは理解していなかった。
気まぐれにつけた名が彼をテツヤにしたのだと告げられ、まるで初めて出会ったように彼を見つめる。
おそらくは永遠に近い時間を生きる、儚い命。

「そうか……。なら、やっぱりオレはここを守っていなくちゃな」
不安定に揺れていた気持ちがすとんと定まる。
彼を守れるのが、他の誰でなく自分だというなら。その因果を生んだのがオレ自身だというなら。
「ありがとうな、テツヤ」
大きくひとつ息を吐くと、オレはテツヤに微笑みかける。
だが返されたのは、さらに予想外の問いかけだった。

◆◇◆◇◆

ほんとうに、話したいのはそれだけですか? 鉄平さん」
「……ああ、そうだけど」
「嘘はやめてください」
「嘘なんか」
「ついてますよね」
薄青の瞳が怜悧な光で俺を貫く。考えすぎだと誤魔化そうとして、煙る蒼い視線にはぁと小さく息を吐いた。
もう、いい。
ここまで情けないところを見せたのだ。これ以上何が変わるというのか、と。
「まったくテツヤには敵わないな」
「ボクを侮らないでください。どれだけの時間、鉄平さんを見てきたと思うんですか」
ただひとり木吉だけが見つけた彼は、ただひとり自分だけを見てきたのだと告げる。それが嬉しいと思う自分は、やはり弱っているのだろう。

怒ったように傍で腕を組む少年の目の前に、オレは一枚の紙を広げて見せた。いくつかの数値や文字の中に『動脈瘤・要経過観察』という一文が隠れている。
なんですかと視線で問う相手に、少しでも理解しやすく単語を探す。
「検診の結果。といっても判らないだろうけど……要はオレの体は時限爆弾をかかえてるらしい、ってことだ」
心臓の近くに出来た血管のこぶ。破裂すればおそらく助からない。だがそれがいつなのか……10年後なのか20年後なのか、それとも明日なのかは誰にもわからない。
説明しながら、初めて結果を知らされた日の奇妙な感覚を思い出す。
父の死と同じ頃発見された皮肉に、やはり自分と父は同じ道を行くのかと思い、いや自分は父よりも意味のない死を迎えるのかと薄い笑みが浮かんだ。
「治らないんですか」
「手術して破裂を防ぐ方法はある」
「なら」
「だが」
被せるように声が荒くなる。いかんと呼吸を整え、オレはなるべく平静に聞こえるよう説明をはじめた。
「簡単な手術じゃない。成功の可能性や術後のことを考えると……この家から離れなくてはならないだろう」
オレが居なくなればこの家はおそらく売りに出される。アメリカに住む母が管理するとも思えないからだ。
そうしたらテツヤはどうなる? ここがあるから消えないでいられると、そう笑ったあの子は。
医師から今後の方針を示され意志を問われた時、思ったのはそれだけだった。

透き通る指先、雨が上がれば消えていく姿。それでもまた来年があると思えば、長い季節も過ごすことができた。嫌いだった雨が待ち遠しかった。
たとえ自分が生き伸びたとしても、彼が居ないのであれば何の意味もない。ならば可能な限りこの家でテツヤを待ちたいと、そう決めたのだ。

「だから? そんなの勝手すぎます」
裏の真意を正しく読み取った、少年の澄んだ声が空気を揺らす。ざぁざぁと勢いを増した雨は、空間を切り離したようにふたりを閉じ込めて。
「鉄平さんはそれでいいかもしれません。でも、それじゃボクはどうすればいいんですか」
静かに、躊躇うことのない感情がオレにぶつけられる。
「毎年毎年、あなたがいるかと心配して。いつ居なくなるかもわからないまま、残りの日々を過ごして。……そんなの、勝手すぎる。ひどいです」
「テツヤ……」
「鉄平さんはなにもわかってません。貴方はボクが『関わり』をもった、たったひとりの相手なのに」

泣くだろうかと、ふと思ったが空色の瞳は乾いたままで。
ただ一層激しさを増した雨音が、彼の心を現すように突き刺さってくる。
生きる理は違うけれど、絡めた因果は引き返せない場所まで届いてしまった。

「なら、どうしたい?」
自分が生きようとすればおそらく彼が消え、それでもいつかは自分が先に逝く。交わらないはずの糸を繋いでしまえば、あとは切れるしかないというのに。
なのに。この繋がりを惜しむのが自分だけでないという事実に、オレの心はどこか満たされていた。
守りたいと言いながら、悲しませることを喜ぶなどと。人とはなんと身勝手で我儘な生き物だろうか。
投げかけるオレの弱さや狡さを全て受け止め、テツヤはただ静かに瞳を閉じた。小さな肩が、握りしめた手が、かすかに震えて。
悲しませたいわけじゃない。オレと過ごす最後の一瞬まで、笑っていて欲しいだけなのに。
「オレが勝手だというなら、テツヤは何を望むのか教えてくれ」
気づいたら言葉が滑り落ちていた。


「ならば……鉄平さんをください。ボクに」
伏せた瞼をあげテツヤがそう告げてきたのは、激しい雨のむこう遠雷が響き始めたころだった。
「オレを?」
即座には意味が理解できず、馬鹿のように目の前の少年を見つめる。薄青の瞳は弱い電球の光の下で、それ自身が発光しているように煌いて。ほんのり見え隠れする色に息をすることも忘れた。
ああ、やはりテツヤはヒトではないのだ。当たり前のことをまざまざと思い知り、くださいと望まれるのが命であろうと構わない気がした。魔に魅入られるとはこういうことだろうか。
「あなたが諦めるというなら、せめてボクの願いを叶えて欲しい」
「ああ、いいぞ」
どうすればいいと問う前に、細い腕がするりと顔に伸ばされる。思わず身を引きかけ、震える指に体を押しとどめた。
「……触れたかったんです、ずっと」
溢された言葉は、オレの想いを映したかのように鮮やかに響く。
「ボクと……ひとつになってください」
切り取られた音が頭で形をなす前に、オレは冷たい掌に唇を寄せていた。

◆◇◆◇◆

叩きつけるような雨が屋根で弾け、時折カーテン越しに稲光が走る。すべての世界から切り離された部屋で、オレとテツヤは布団の上、向かい合って座っていた。
「テツヤ」
名を呼び手を伸ばせば、僅かに身をすくめるものの逃げようとはしない。そっと触れた指先に感じる頬は、ひんやりと冷たい。
撫でるように掌を重ねていけば、くすぐったいのか僅か身じろぎをする。その仕草が人慣れしていない子猫のようで、オレは静かに顔を探るように指を這わせていった。
「ほんとうに、いいのか?」
「それはこちらのセリフです」

異質な存在が交わることは、禁忌だ。歪な関わりからは何を生じるか予測がつかない。
それがゆえの禁忌。
だが、とオレは知れず唇をゆがめる。
禁忌というものは、起こりやすいが故に禁忌なのである。起こり得ない出来事なら、わざわざ禁じる必要などどこにもないのだから。
つまりこの行為がテツヤの本能に禁忌として刻まれているのなら、昔から繰り返されてきたと考えるのがふさわしい。
オレが消えるか、テツヤが消えるか。共に異形になり果てるか。
いずれにせよ自然の節理に反した行為には、ふさわしい結末が用意されているのだろう。


「別に、いまさら何が起きてもオレは困らないからなぁ」
言い出したもののどこか後悔をにじませる少年に、オレはことさらのんびりとした口調で話しかける。
「でも、もしテツヤが怖いんなら、やめてもいいんだぞ」
「言ってることと行動が矛盾してます、鉄平さん」
腕を差し伸べながらの台詞に、テツヤくすりと笑った。その笑顔ごとこの手に閉じこめる。
初めて抱きしめた体は僅かに震え、それでも消えることなく腕の中にある。その事実だけでオレの鼓動は走り、何年もの間求めていたものの正体を知った。

オレが欲しかったもの。
この手に掴み、本当に守りたかった命。
他の誰にも向かなかった執着の在りかを、ようやく認めることができた。

「人というのは、こんなに温かいんですね」
ほぅと息を吐いてテツヤが体を摺り寄せてくる。抱きしめる腕に力がこもり、バランスを崩した俺達はそのまま柔らかな布団に身を投げた。横抱きにしたまま、顎のすぐ下に見えるつむじに唇を寄せる。
「雨の匂いがする」
彼の意味を思えば当たり前の事実が、それでもひどく新鮮で。擦りつけるように顔を動かせば、変な感じですと湿った声が笑った。
「あの、鉄平さん。お願いです。脱いで、ください」
あなたに触れたいんです。まっすぐな要求にわずか籠る羞恥の気配。まるで人そのままの反応に、苦笑しながら数枚の布をはぎとり素肌を夜気に晒す。
そっと覆い被されば、オレの姿を真似たように触れる素肌。映す、とはこういう意味かとあらためて納得する。

刹那、疑問が浮かんだ。このテツヤの申し出も、オレの欲を映したものではないのか、と。人外である彼が人の営みを欲する理由が見つからず、ならばこれは、酷く残酷な我儘でしかない。
慰めてくれているのか?
言葉にせず問えば、オレの下でテツヤは大きく目を見開き、きょとんとした声で問い返してきた。
「慰めになるんですか? こんなことが」
微かな卑下を言葉尻に感じ「オレにはな」と首筋に噛みつくようなキスを落とす。あ、と小さな悲鳴を上げ白い肌がのけぞった。

「ボク、は」
「ん?」
首から肩にと散らばるキスに息を乱しながら、か細い声が音を紡ぐ。
「ずっと、こ…してみたかっ…。鉄平、さ…がっ、他の人に触れ…のを、見てから」
オレが、なんだって?
「ボ、クは……いるん、です…ずっと」
見てました、ずっと。鉄平さんが知らない人間を抱きしめ、唇を寄せ、微笑みかけるのを。
「ただ……見てるだけ、で…そんな、の、わかってた、のに」
吐き出す告白は痛々しく、それがゆえにオレの心に薄暗い喜びをもたらす。
人でない彼が抱いた、余りに人間くさい感情。
姿はなくとも雨が降れば、そこにテツヤの意識はあるのだと。そんな当たり前のことをオレは失念していた。
「それじゃ、オレはテツヤに触れていいんだな」
強く抱きしめた胸の中、こくんと頷くのを感じる。
「ありがとう」
不意に瞼の裏が暑くなるのを感じ、誤魔化すようにさらに激しく、ひんやりとした肌に唇を落とした。
触れられることがなにもかも初めての肌は、オレの行為ひとつひとつを戸惑いながら受け入れ。そうして次第にあたたかく変わっていく。
オレの体温が移ったのか、それともオレが冷えていてそう感じるのか。考えて、どちらでも大差ないと思考を止めた。
見知らぬ感覚に竦みそうな体を、それでも懸命に明け渡してくる。健気ともいえる誠実さに目眩を感じながら、オレはただその存在に沈み込んでいった。
「テツヤ……テツヤ……」
うわ言のように名を呼ぶ。そうすることで、存在を繋ぎ留めれるかのように。
オレの体の下で、水から離された魚が大気に溺れるように、細い肩が胸が喘ぎ跳ねる。
それから先は互いに吐息ばかりで、意味のある音などどこにもなかった。

掌を重ね、指先をすべて絡ませるようににつなぐ。薄い布団に押しつけるようにのしかかり、曝した肌を余すところなく重ねる。
ぴたりとパズルの欠片みたいに隙間なく触れあった熱は、オレからテツヤにテツヤからオレにと巡り、とどまる場所を知らなかった。
うわ言みたいに熱い息がオレの名を呼ぼうとするが、すぐに乱れ音は崩れ、互いの唇に飲み込まれて消えていく。
逃げることも逃がすこともできず望まず、束の間も惜しむようにさぐりあう。
今、確かにここに彼がいる、それだけが泣くほどに嬉しかった。

「て、っぺ…さ」
精一杯で紡ぐ名に限界が近いことを知り、ともに果てようと抱きしめなおす。
予告もない行為に、それでもテツヤはただ喉をそらすだけで耐え。
それから繰り返される「あ」の響きが、望むものを与え受け止めたと二人に教えてくれた。

放つたび境界が揺らぎ、自分が薄まっていく気がする。何度果ててもきりなく熱は浮かび続け、それは命すべてを彼の中に注ぎこむまで終わらないように思えた。
「それも、いいか」
何もかも与えて逝けるなら、それはそれで望んだままじゃないかと。オレがつくる影の中、虚ろな視線を飛ばす少年をみつめ微笑んだ。
「一緒にいこうな、テツヤ」
幾重もの意味を込めて、オレは細い肢体を掴み揺さぶる。しがみついてくる腕は、爪を立てながらオレの背を滑っていく。
薄明かりに浮かぶ頬は、いつしか躑躅の色を散らし。そこにぽとりと落ちた雫を、ふたり、汗か涙か知ることもできない。

甘い言葉のひとつもやれなかったなと、気づいたのは意識が薄闇に落ちていく直前だった

◆◇◆◇◆

(……ん?)
薄闇を通り越し、ふとオレは自分が何もかも定かでない靄の中にいることを自覚した。

見渡す限りの空間は明けの空の色。
そこにあるはずの腕も指も見えず、ただ自分がいる、という感覚だけを脳が感じていた。
もしやと周囲を探れば、何も見えない先に確かによく知る彼の気配があって。ただ感じるそこに映る姿はなく、互いにあやふやで不確かなモノになったのだと本能が理解した。


(テツヤ、いるんだろ)
(てっぺい、さん?)
混ざれそうに近く、なのに絶対に一つになれないのだと感じる。今はもう、抱きしめる肉体もここには無くて。
(ごめん、な)
自分の我儘で、自分の欲で、彼を虚ろな存在に変えてしまった。起きたこと全てに後悔はないが、それでも罪の意識はぬぐえなかった。
(あやまらないでください)
怒ったようなテツヤの言葉が流れ込み、いまだ残る感情の残滓に苦い笑みが零れる。だが。
(ボクは自分で選んだんです。……望んだんです、こうなることを)
(あなたが……鉄平さんが居なくなってもボクは生きていけたでしょう。でもそれは、ゆっくりとボクが消えていく時間でしかない)
響いてくる声は、オレの考えを笑い飛ばすほどに、まっすぐで強いものだった。
(見つけられ名を呼ばれることで、ボクはテツヤとしての意識を手に入れた。あなたが呼んでくれるからテツヤでいられた)
呼ばれない名など、何の意味も持たないのだと明るい声が告げてくる。
(だから、これはボクのわがままです。ゆっくり記憶を失ってただ流れる意識に戻るより、あなたを覚えているままで消えたかった)
最後までテツヤでいたかったのだと、やわらかに微笑む気配に、自分がどれだけ彼を失いたくないかを思い知る。
(テツヤ、オレは……)

人の言葉は何と不自由なのか。幾重に紡ごうと、けして全てを正しく伝えることなど出来はしない。
浮かぶのは、ただひとつの真実。

(オレは、おまえと共にありたい)
どこであろうと、何になろうと、決して離れることなく。そばに。
(ありがとう、鉄平さ……ボク、も……)
ふわりとした声が途切れ途切れに届き、消える。
嫌だ、まだ待ってくれ。
紡ごうとした声は発されることなく。オレの意識はそのまま失われていった。




「テ、ツヤ……」
伸ばした腕がぱたりと落ち、素肌に触れる布の冷たさに目が覚めた。
障子越しに射し込む薄明かり。見慣れた木目の天井と電灯に、夢かと寝返りを打とうとして……。
乱れた布団の皺に一気に血の気が引いた。

「え」
勢い込んで身を起こせば、何一つ纏わぬ我が身がいっそう事実を伝えてきて。まさかと周囲を見回すが、どこにも淡い彼は見当たらなかった。
座り込み、眠りが醒めきらぬ頭をがしがしと掻く。導ける結論を認めたくなくて、オレは瞼を閉じ昨夜を思い返す。
テツヤの中に注ぐたび、自分があやふやになっていく気がした。あれが夢でないなら、消えるべきはオレではなかったのか。ともにありたいと頷いた彼が、どうして居ない。
うそだろ、と。誰に問うでもなく呟く声は、ふわりと朝の音に消えて。
流す視線の先にうつる仄明るい四角は、障子越しの朝日がもたらす模様。なす事も思いつかず眺めているうち、不意にあることに思い至る。
「そうか、雨だ」
雨の音が、しない。雨が上がったのであれば、テツヤの姿がなくとも不思議はない。そうだ。そうに違いないと起き上がり、手早く衣服を身にまとうと濡れ縁への障子を開く。
からりと音もなく滑った戸の先の、ガラス越しの庭に見えたのはしっとりと濡れた紫陽花の花。ひろげた葉にぽつりぽつりと名残の雨が落ち続けている。
薄日の中の天気雨。

「降って……?」
微かにつないだ希望を打ち消され、部屋の中オレは茫然と佇む。
やはりテツヤは消えてしまったのだ。人の業を受け止めて、自らの身を変容させて。
「オレは、なんてことを」
ふらり一歩踏み出せば、廊下がきしりと鳴く。きしり、きしりと響かせて縁を横切り、硝子戸を開け庭に踏み出した。足元で木下駄が揺れ、視線が落ちる。
ため息とともに伏せた瞼を再び上げた、その時だった。

視界に飛び込んできた、やわらかな青。

「テ、ツ……ヤ?」
「置いていかれてしまいました」
かさりと濡れた葉から滴を落としながら、白いシャツをまとった少年が見返してくる。
困ったように笑う、泣きそうな顔で。
信じられないまま立ち尽くすオレもきっと、同じ顔をしていたに違いない。
「人と交わったボクは、もう、あの流れには戻れないそうです」
鮮明なその輪郭に、オレは声もなく踏み石から降りる。湿った土が裸足にまといつくが、気にする余裕もなかった。

数歩で庭を横切り、隠れるように立つ彼を抱きしめる。
何か一つ間違えばこのまま消えてしまうんじゃないかと、怖くて声を出すこともできなかった。
「て、っぺい、さ……」
胸でくぐもる声に、さらに力がこもる。
雨に濡れた体は冷えてはいたが、それでも確かな熱を宿しており。彼はもう行ってしまわないのだと、そう本能が理解した。
「居て、くれるんだな」
「……居てもいいんですか」
戸惑いがちに問い返す唇に、なにより雄弁なキスを落とす。
「まさか、こんな……夢みたいなことが起きるなんて、思ってもなかったよ」
「本当に?」
「ああ」
抱きしめたまま、雨が去った空を見上げる。
もう帰れない広く自由な世界を懐かしむ日もあるだろう。それでも、オレはこの手を離してやれない。

「オレと一緒に生きてくれるか、テツヤ」
奪った時間の分、精一杯、おまえを守って生きるから。
「……夕べも言いました。それはこっちのセリフです」
幾分照れくさそうにしかしきっぱりと言い切る少年の、見上げてくる空の瞳は夏の色に染まってオレを映す。
互いがここにいると確かめるように抱きしめあったまま、無言で時が流れていく。
そうして。
足に散った濡土が白く乾く頃、「言い忘れてました」とテツヤが悪戯な子供の目で微笑んで。
「遅れましたが、お誕生日おめでとうございます」

これからはずっとボクがお祝いしますから、ずっと傍にいてくださいねと。
腕の中で見上げてくる少年を照らす、雲の切れ間から差し込む光が眩しくて……涙が滲んだ。
 




THE END

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