くん……と仔犬のように空気の匂いを嗅ぐ。

すんなりとした首を天に向けて伸ばし、金の睫を半分閉じて夢見るように。

そんな仕草に気づいたのはいつの頃だったろうか。



「………あ」

「ん?」

「林檎の、匂いが……する」

「そうか?」

そんな甘い香りは……と言いかければ「そっちじゃなくて」と首を振る。

視線で説明を求めれば、曖昧に小首を傾げ、

「ううん、なんでもない……」

そう懐かしそうに微笑んだ後、悪戯をたくらむ瞳で笑ってみせる。

「アンタと暮らすようになってそろそろ一年経つなぁ……って」

「ああ、もう、そんな時期か」

見やれば街は次第にオレンジの飾りに包まれ、ショウウィンドウのあちこちにカラフルなお菓子が乱舞する。

「今夜のデザートはかぼちゃのパイがいいな」

相変わらず甘いものに目が無い少年の台詞に肩を竦めながら、指さされた店にと足を運ぶ。

「それじゃ、俺はこれを食べたおまえを食べさせてもらおうか」

「ばーか」

ケーキの箱を手に家路をたどる。


それはいつもと変わらぬ秋の夕暮れだった。


   ★「ハロウィンナイトを 過ぎても」その4★

【 林檎の匂い と 風の国 】



「あっ…ふ……」

どさっ、と広げた羽ごと青年の上に華奢な体が倒れこんでくる。

デザートどころか夕食もそこそこに迫ってきた金の子供の熱は、数度の交わりで収まる程度の飢えでなく。

数え切れぬほど注ぎ込みイかせ続けた疲れから、ようやくその意識を手放したのは

もう、うっすらと朝がその足音を聞かせようかという頃。



「まったく……いったいどうしたというんだ?」

自分の上でくうくうと寝息に変わった少年の、その背中をそっとベッドに横たえ

黒髪の青年、ロイ・マスタングは明けゆく空に大きく息を吐いた。



すっかり満足したげに眠る金の子供は名をエドワードという。

その背中から生えた黒い羽をみれば一目でわかることだが、人間社会の存在ではない。

彼はいわゆる淫魔…インキュバスと人が呼ぶ魔界の住人である。


二人の出会いは一年前のハロウィンの夜。

人間界に餌を求めてきたエドがロイに目をつけ、そのままベッドイン。

ロイの上質で豊富な性エナジーとテクと口車になし崩しに丸め込まれ、

気がつけばこうして人間界でバカップルよろしくいちゃいちゃと暮らしていたりする……訳だが。




隣でいつものように寝息を立てるエドの、うっすらと上気した肌を撫でながらロイは首をかしげる。

エドがSEXに貪欲で快楽に忠実なのはいつものことだが、ここ数日どうにも度が過ぎている気がする。

おそらく普通の人間レベルの体力だと、精気を吸い尽くされて死んでいるのではないかと思う程に。

「なにか、あったか?」

そんな変化をもたらす出来事があったかと思いをめぐらせても、思い当たる節はない。

「ま……いいか」

気絶するように眠ったエドワードのすぐ横に自らも横たわり、

しなやかな白い肌を撫でていれば、さすがのロイにもふんわりと睡魔が訪れてきた。

(……明日は、湖水地方に査定が一件あるだけだし、しばらく眠るか)

予定をざっと頭でチェックすると、男はつかの間の深い眠りに金の少年と並んで落ちていった。


*****



数時間後、ロイはゆっくりと伸びをするとベッドから起き上がった。

隣で眠る少年はまだすやすやと夢の国らしく満足そうな笑みのまま寝息を立てている。

そのあまりに安らかなあどけない寝顔に起こすのも忍びなく、静かにキッチンへと向かいコーヒーを淹れる。

(とりあえず、起きて不安がらないようにしておかないとな)

自分がいないとどうやら落ち着かないらしい子供のためにテーブルの上にメモを置く。

今日の仕事は一日がかりだろうから、のんびり休んでいなさいと。

「……と、それから念のため……」


ロイは足音を忍ばせて地下室に降りると、壁にはめ込みの戸棚から一冊の古びた本を取り出した。


「う〜ん、そうだな、今日は……こいつで良いか」

開いたページに掌を置き、なにやらかすかに唇を動かす、と。

もくもくもく……と、本から白い煙が流れ出し、しばらく空に留まった後、

自らの形を思い出すようにじわじわと人の形にと変化していく。



「目覚めよ、主人の命の下に」

ロイの静かな声とともに姿を現したのは、一見普通の女性、だが……


その下半身からは八本の蜘蛛の足が生え、しかもサイズまで大きめの蜘蛛程度である。

アラクネ、と呼ばれ恐れられていたはずのその魔物は、しかし。

面妖な下半身に似合わずその上にのっかった顔はかわいらしい丸顔で、しかもなぜか眼鏡までかけていた。



「なんですか〜、こんな明るい時間に〜」

「やあ、おはよう。シェスカ、少しばかりお願いがあってね」

ふぁ…と、とぼけた口調であくびをする妖魔にロイはにこやかに笑いかける。

どんな存在であれ女性に礼儀正しいというのはこの男の特質の一つだ。

「実は今日少し留守にしなくてはいけなくてね、その間こっそりとエドワードを守っておいてもらえるかな?」

「あー、そのくらいなら…別にいいですけどぉ……」

延ばす語尾ににっこりと覆い被せて

「命令どおりにできたら、今日行く家にいい本があれば買ってきてあげよう」

「本当ですか!? わ、じゃあ頑張ります!」

条件を聞くや否やさっさと、壁を伝って天井裏にとその姿を隠す。

現金なその態度に苦笑しながらロイは再び本を戸棚に戻した。

「さて…これで、万が一魔界からエドを取り戻しに弟が来ても大丈夫だろう」

アラクネは姿こそ小さいが吐く糸は強力で、獲物を絡めて逃がす事は無い。



留守にする準備を整えるとジャケットを羽織り、幾つかの道具の入ったバッグを手にしてリビングを後にする。

壁にかかったカレンダーには10/30に赤い丸。


『なんだそれは?』

『え? だってこの日が俺とロイがあった日でしょ?』


魔界には日付などの観念が無いから、とエドは珍しがってやたらカレンダーに印をつけたがる。

しかもそれが全て自分と何かをした日だという事実は、他の女がやろうものなら鬱陶しいの一言なのに、

エドワードがうれしそうに書き込んでいるかと思えば、ばかばかしいと思いながらもどこか面映く。


(私も、そうとうやられてるな……)

自覚するほどに、この一年ですっかりインキュバスに絡めとられた我が身を苦笑するしかなかった。



それを証明するかのように、まだ眠るエドのために甘い紅茶とパンケーキを用意すると

温められるようにセットして、ロイはそっとドアの鍵を閉めたのだった。


*****


さて。エドワードはいまだに知らないが、実はこのロイという男、ただの人間ではない。


祖父母が魔貴族と彼を捉えた魔使いという、幾分常識はずれの組み合わせの生まれであり、

魔使いであった祖母の血を色濃く継いだ為に、魔を操り、封じ、

しかも彼女の遺品である魔封じの本を自在に使えるというとんでもない男であった。


そして、これもエドが教えられてない事実だが、そんな出生と力の為にロイの存在は

人というよりむしろ魔にちかく、それがゆえに実際の人よりも長い時間生き続けているのだった。




「今日は没落した元公爵家……という触れ込みか。さて、少しは掘り出し物があるといいが」

湖水地方に向かう列車の中でロイは手帳を出して予定を確認する。


人より長く生き色々なものを見てきた事を利用して、ロイはアンティークを取り扱う店を経営していた。

あまり目立つのもまずいので手広くはやらないが、その分じっくりと確実に良品を取り扱い買い叩きもしない。

その良心的なやり方と、老若とわず(特に女性に)礼儀正しい振る舞いで

着実に顧客と評価をつかんでいるあたり、なんともこの男らしい。

そんなわけで今回の話も、以前別荘を処分した老伯爵夫人の口添えによるものだった。

わけだが。



「こ、れは……」

「いかがかしら、少しはお役に立てそうなものがありまして?」

おっとりと微笑む銀髪の公爵夫人にロイは感嘆の声を惜しまなかった。

「ええ。それどころか…素晴らしい、文化的遺産といってもいい家具や置物です。公爵夫人」

しかもよほど気をつけて暮らしていたのか保存状態も申し分なかった。

「あら、そんな大層な肩書きはもう必要ありませんわ、ただのおばあちゃんですもの」

にっこりと笑うその姿は、若い頃はさぞや社交界をにぎわせたであろうという美貌を覗かせていて。

「では、失礼でなければレディ・ソフィアと」

「まぁ、そんな名で呼ばれるのはいつぶりかしらね」

ロイの言葉に上機嫌で微笑むと夫人は「ゆっくりご覧になっていて」とその姿をキッチンにと消した。


(しかし、これは……本当に素晴らしい)

紹介者の話では、自分が死んだ後放蕩息子に借金のカタとして売られるのは先祖に申し訳ないと、

自分の存命中に手放すことを決めたという。

(できる限り高く買い取っても、これなら損は無いな。いっそ建物ごと買い取ってもいいくらいだ)

ロイは周囲のものを物色しながら二階へと上がろうとして……



その踊り場にかけられた天使の絵に視線を奪われた。




「エド………?」


それは天界を地上から望む天使の絵で、さし伸ばした腕の先に深紅の蔓薔薇が巻きつく、

清廉にしてなんとも背徳的な空気の漂う絵画だった。


(Heaven’s Door……天国の…扉、か…)

その金の瞳の天使の表情が、最近ふとエドワードが浮かべる顔と重なり、ロイは瞳を外せずにいた。

天界に…生まれ故郷に帰りたいと懐かしむような、諦めたようなその瞳。


(そうか……もしや、エドは……)


はじめてあった時に仔犬のようだった少年は、一年経たないうちに艶やかな魔物にと育った。

見た目は、かわらない。あの頃の頼りないほどのしなやかさとあどけなさを残したまま。

だが、瞳が、変わった。

金の瞳は時折切なげな揺れる色を宿し、理由もわからぬそれがエドワードを不意に大人びた風情に見せた。


ここ数日、どうもエドの様子が不安定な気がして気にかかっていたのだが、その原因はもしや。

(帰りたい…のか?)



ハロウィンの夜は魔界と人界が繋がる日。

その日に里心がついても不思議は無い。



「マスタングさん? お茶が入りましてよ」

階下から声をかけられるまで、ロイは思いついた可能性に呆然とその絵を見つめ続けていた。


*****


ロイが幾分落ち着かない気分を抱えながらお茶と商談を交わしていたその頃。

「ん、んん〜〜んっ」

昼の陽射しが射し込む窓の下で、金の少年は目覚め大きく伸びをしていた。

何の遠慮も無く伸ばされた黒い羽は大きさこそそんなに変わってはいないが、

ロイと暮らし始めた頃よりずいぶんと艶やかに深い光を宿し、エドの淫魔としての成長を物語っていた。

「あー、よく寝た。……と、ロイ?」

家の中に人の気配が無いことを察してごそごそとおき出す。


気配を感じてシェスカは静かに屋根の上をひそやかに移動した。

守るだけなら下手に姿は見せないほうがいいと判断して。……だが。

「ぃ、えっ……ええっ!??」

明け方までロイと睦み会っていたエドの肌には、明らかな情交の赤い痣がいくつも舞っている。

当然何一つまとわぬ姿だが、それを隠そうともしない。


一人だと思っている上に、裸を恥ずかしがるという文化は魔物には無いのだから仕方ないとはいえ

しばらく封印されていた乙女(数百年生きてもそう呼ぶならば、だが)のシェスカには刺激が強すぎた。

(あ〜、もう。ご主人様ってば激しすぎ。……まぁ、こんな美味しそうな子なら仕方ないかしら……)

一瞬、魔物の本能が暴走しそうになったが、支配されてる身としては燃やされても困るのでぐっと我慢する。

(でもまぁ、心配するのも仕方ないかもね。

 こんな美味しそうな匂いぷんぷん出してる上に、今夜はハロウィンなんですもの)


シェスカはくん…と空気の匂いをかぐ。

人界と近づき開き始めた扉の隙間から漏れ出る、懐かしい魔界の匂いが少しずつ濃くなってきている。

無礼講はもうじきだ。



そんな瞳に見つめられてるとも知らずエドは、とんとんとキッチンまで降りるとテーブルを見てにっこり笑った。

そこにあるのはぶっきらぼうだけどやさしいロイの手紙。

一度エドが寝ている間にロイが出かけた日、エドは不安のあまり身動きひとつできずベッドに篭っていた。

そのことがあって以来、ロイはどんな近くに行くときでも必ずこうして手紙を残してくれる。

そんな風に気遣われたのは生まれて初めてで。

「えへへ…」

用件だけを書いたそっけないその紙はエドの宝物となって、

最初の一枚から全部こっそりと、大好きなクッキーの空き缶に隠してあるのだった。


そして、再度テーブルの上を見てエドはふるふると黒い尻尾を震わせる。

「うふ。……ロイ、好き!」


淫魔であるエドは性エナジーが食料であり、本来食べ物をとる必要は無い。

だが人とまぎれるため『食事』はできるし、嗜好として甘いものはエドの大好物だった。

それを知った上でロイは必ずエドに甘いおやつを用意して出かけてくれるのだ。

罪を犯した父の罰で低級魔として生まれ母を亡くして育ったエドには、

これまで無条件に甘やかしてくれる相手など居なかった。

それだけにロイの心配りがエドにはかけがえの無い喜びであり、失いたくない物であった。



だから。


それだから、こそ。




「……あ?」 くん、と空気を嗅ぐ。

甘いメープルシロップの香りに混ざって、仄かな青い匂い。そう、野生の林檎の実ような……。

それは魔界の空気の香り。

「扉が…開いた?」

エドの金の瞳が怪しくきらめいた。


TOP NEXT

 

思い立って、ほんの短い話にするつもりが
なにやらロイの設定とかかけ始めたら長くなりました。
……っていうか、シェスカ、あれ? そんな役回りのはずじゃ…。
いやー、お話って生き物だなぁ(棒読み

本当のハロウィンまでに終わること熱烈希望……。

(08.10.28)

 

 

 

 

 

 

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