とくん、とくんと規則正しく打つ胸の響き。
青い軍服ごしの、ほんの微かなその音がエドを落ち着かせていく。
(あ……)
抱きしめられている。大佐に。
くん、と小さく息をすれば今まで知らなかった男の香り。
それがなんだか哀しくて、無意識に頬を摺り寄せれば回された腕の力が強くなる。
そして…。
(お、おれ…っ?)
エドは唐突に我に返った。
いままでこんなに近づいた事なんてない。
いくらまだ身体は幼いままといえど、迂闊すぎる。
もし、なにか不審に思われ問い詰められたら、不安定な今、どこまでシラを切れるか自信なんてない。
思った途端、エドはロイの胸を突き飛ばしていた。
「ご、ごめん」
「いや…」
一定の距離を置き見つめあう黒と金の瞳。
距離は開いたはずなのに息苦しさは余計に増して。
「鋼の…」
「ご、ごめん。なんか、俺、今日…おかしいんだ」
言葉を続けさせたくなくて、とってつけたような言い訳と知りつつ口走る。
それがいっそう男を心配させる事になるとも思わずに。
「よくあるんだ。厭味いわれたり…そういうの。ほら、俺って目立つじゃん」
合わせたくない視線。
でも疑念をもたれたくなくて強引に上げ、そう無理矢理にニヤリと笑って。
「だけど、今回は……不意打ちっていうか? うん、そういうのだったから驚いて…」
らしくねぇよな、ごめんと。何事もなかったようにゆっくりとソファから立ち上がる。
(はやく…はやく、ここから逃げなきゃ…)
いろんな事が起こりすぎて、もうどこにも余裕なんてない。ばれないうちに、早く。
「……君がそう言うなら、そういう事にしておこうか」
いままでエドを抱きしめてた両手を、ふいと横に軽く上げて「了解」とばかりにロイは瞳を閉じてみせた。
腕の中、振り絞った叫びはそれだけの事ではないと告げていたが、
問い詰めたところでこうなったこの子が喋らないのは目に見えている。
「サンキュ」
笑顔とも言えない形に歪む子供の口元。
泣いてるかと思った瞳はいっそ不自然なほどに乾いていて。
(誰かは知らんが、私の……部下を、虐げた落とし前はつけてもらうからな)
ロイは、返す穏やかな笑みの中にほの昏い決意を隠して、背中を向けようとするエドワードを見つめていた。
真直ぐな全てを見通そうとする光。
その視線から目を逸らすように、エドはコートを掴むとドアのノブを掴む。
「ま、明日にはまた旅に出るつもりだから、当分は大丈夫じゃね?」
軽く言ってのけた筈の声に返されたのは、思いもよらぬ言葉。
「それは……無理だな。鋼の」
「え?」
「君は旅には出れない」
予想外の科白にエドの唇だけが「なんで?」と動く。
音にならない問いかけ。
その蒼白な表情に、隠しきれない傷を見てロイの声が曇った。
「……さっきの会議で決定したんだ。国家錬金術師を狙った事件が多発してるのは知っているだろう」
嫌な予感にエドは固まったまま次の言葉を待つ。
「セントラルへの収集がかかったんだ、国家錬金術師に対して。
各個で争うよりこの地におびき寄せた方が制しやすいと」
「……罠、でもはるつもりなのか?」
「そう、そのための餌になれ、ということだな」
「それって……」
誰が、と聞こうとしてエドは口を閉じた。
おそらくは大総統の画策に違いない。そう思う。
(おれが…俺という玩具が、ここから暫く離れられないように)
穿ちすぎだろうか。作戦としては筋が通っている気もするが、大掛かり過ぎはしないか。
まぁ、よしんば違ったとしても、迎える結果にたいした変わりはないのだが。
「例外は認められないんだ、鋼の」
エドの言いかけた言葉をとりちがえて、ロイがすまなそうに言い募る。
「いっそ君が今居ない事になっていれば、知らなかったとして旅に出してやることも出来たんだが……」
「なに……ヘンな気ィ回してんだよ。らしくねぇな」
余りに辛そうな男の口調に、大きく振り返り笑ってみせる。
「ここには大きな図書館もあるし、しばらくは調べ物でもして過ごすさ」
宿と図書館の往復なら、それでもまだ気が紛れるだろう。
そうして覚悟をしておかねばならない。
おそらく、これが大総統の指図ならば遅からずまた呼び出しがかかる筈だ。
(そんで……また…)
背筋を嫌な汗が流れ、呼吸が浅くなる。
エドは指先が震えそうになるのを握り締めることで耐え、視線を上げた。
(大丈夫、俺は負けない。間違ってない…)
呪文のように心で唱える決意。
だが、そんなエドの覚悟を嘲笑うかのように、全ての事は望まぬ方向に流れていく。
「宿には戻れない」
「な、んで?」
「一般人を巻き込む可能性が高いからだ」
「……じゃ、俺は…?」
ゆっくりと問いかける声が他人のもののようだ。
「本来、軍の宿舎に泊まるべきだが……今回の件もあるので、特別処置を申請した」
「と、くべつ……?」
どくどくと鼓動が早まる。
いずれにせよ、それは大総統が知り許可を下したという事だ。エドの胸で嫌な予感が膨らんでいく。
「そう。君は後見人宅預かりとなった。……つまりは、私の家という事だな」
(う…そ……だろ?)
エドは言葉もなく、ただ瞳を見開いた。
信じられない。だが、聞き間違えようも、ない。
「俺、が……大佐の、家に?」
なんてよくできた冗談だ。
(やって、くれる…よな。どこまでも)
確定だ。アイツは俺の思いを知ってる。
そして、その気持ちまで退屈しのぎの、取引の条件として弄ぼうと。
ぐっと閉じた瞳の裏に眼帯の男の笑みが浮かぶ。冷たく、見下したその笑み。
ずきん……と、心臓の近くが痛む。
(ち、くしょう。ちくしょう、負けるかよっ!)
「そんなに警戒せずとも、君にはきちんと鍵がかかる部屋を用意するから」
エドの反応をどう取ったのかロイは軽く肩を竦めると、そう言って自分のコートを手に取った。
気づけば机の上の書類は既に片付き、もう主は必要なさそうだ。
「鍵…って」
「まぁ、私もそう節操なく襲い掛かる趣味はないが、あの話を聞いた後では…気になるのだろう?」
「あ」
ぽんぽんと頭を軽く叩かれながら言われ、エドは数日前のハボックとの話を思い出した。
『大佐は実はゲイで…』
(そうか、大佐は俺があれを気にしてると。気にして渋ってると思ったのか)
それならそれでいいのかもしれない。今は少し距離がなければ辛すぎるから。
好きな人と一緒に暮らせる。
それは夢に見たほどの幸せなのに、今は苦痛でしかないなんて。
それでも、ほんの少しどこかで嬉しがってる自分が居るのをエドは知っている、それは確かに。
この男の知らない顔が見れると思うだけで、胸のどこかがほっこりと温かくなるのだ。
「……俺って…救いようねぇ…な」
「ん?何か言ったか?」
廊下に出て、執務室のドアを閉めるロイの背中を見ながら、エドはこれから訪れる日々に小さく溜息をついた。
気づけば一年近く放置でした、あれ?
ちまちま書いてたはずなんですが、おかしいな。
とりあえず、次からは第2章に入ります。
鳥籠レベルの悲