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殊更にゆっくりと歩いても、その部屋は近づいてくる。

足どりが重くなるのは、体と心の…痛みの所為。




角を曲がろうとした時に向こうから来る女性が目に入り…エドは足を止めた。

見知ったその顔に、避けたい、と本能的に思ったが逃げる場所などどこにもなくて。

「あ、エドワードさん!どうしたんですか。こんなところで?」

掛けられる声。不思議がられても仕方ない。

ここは司令部の中心近くで、国家錬金術師といえど、そうそうふらつく場所ではないから。

「あ…ああ。大佐に呼ばれたんだけどさ、めんどくせぇなぁって…」

「だめですよぉ、にげちゃ〜」

いつものように本をかかえ、コロコロと笑う彼女、シェスカに

「わかってるよ」と手を上げると何げなさを装って立ち去る。歩みさる後姿に感じる視線は気のせいだろうか。

その気配が完全に背中から消えた途端、どっと疲労が襲ってきた。




「にげちゃ…だめ、か」

知らず、小さく吐く呼吸が溜息へと変わる。

(なんで…こんな…)

何も見た目は変わってない、と。理性ではそう思う。だけど。

未だに何かがソコにあるような異物感の残る躯は、犯された事実を忘れさせてはくれない。

なんだか全ての人に自分の変化を見透かされてるようで、落ち着かない。

「…んなわけ、ないって…」

自分で自分に言い聞かせ、ともすれば萎えそうになる心を奮い立たせてエドは、歩いた。

 

 

「はいりたまえ」

ノックへの応えはすぐあった。そのことが「待たれていた」事実をエドに悟らせる。



中から響いてくる声に胸が切り裂かれるようで、それでも、顔色ひとつ変えるわけに行かなくて。



「やぁ、遅かったね。迷子になって保護でもされてるんじゃないかと心配したよ」

黒髪の大佐殿の、厭味半分の軽口はいつものこと。

「誰が、迷子になるほどのチビっこだ?!」

殊更に普段通りの口調で怒鳴り返せば同じ様に笑う黒い瞳。

安堵の色が見えた気がしたのは気のせいだろうか。

「んなこと言ったって、ついさっき知ったばっかりなんだから仕方ないだろ?」

ついさっき、という単語にその眉がぴくりと反応するがエドは気づかないフリをした。

ついでに『どこにいた』という無言の問いかけも黙殺して。

「あ〜、だりぃ…。失敗したなぁ」

つかつかとソファまで歩くと小柄な体に似合わぬ勢いでドサリと腰を沈める。

いかにも楽しみを中断させられた、面倒そうな風情で。

……本当のところ、もう足が震えて立っていられなかったのだけれど。




「で? どっか、なんか直すんだろ?」

アンタに聞けばわかるんだっけ? と、偉そうにふんぞり返って聞いてくるエドをロイは静かな表情で見つめる。

「…どうした?らしくないな、鋼の」

どくん。胸がひとつ強く打つ。なんで? なにか、へんだったか、おれ?

「なにがだよ」

「君が素直に私に聞いてくるなど……。明日は嵐かな」

まんざらでもない顔で書類片手に近づいてくる姿に、エドは自分の失敗を悟った。

確かにいつもだったら、こんな素直にきいてやしない。

とにかく早く帰りたい、その思いが裏目に出てしまった。

「そりゃ…」

言い訳は思いつくけれど上手く言葉に出来なくて。視線をふっと落とせば、直ぐ横に立った男の軍靴が目に入った。



床の絨毯、黒い靴。一瞬の残像。

自分を、犯した、軍服の、男。



「…っ」

ぐらり眩暈を感じ、エドは必死で体を支える。こんな場所で、倒れられない。

それでもよろりと上体がよろけそうになった処に…。

知ってか知らずか…書類を持ってロイがすっと腰を降ろした。

倒れそうなエドの体はその胸にもたれる格好でとまり、傍からはエドが書類に覗き込んだようにしか見えなかったろう。

「まあ、いい…ほら、ここのところだけどな…」

戻ってきた視界の中で大佐の長い指が書類を指し示している。耳元で落とされる落ち着いた声。

何の動揺も感じられないその仕草にエドは胸を撫で下ろした。



偶然かもしれない。多分、ぐうぜんだろう、けど。

こんな風にこの男はいつだって自分を支えてくれる。




あの時…。

手足を持っていかれ…母を二度死なせたあの時も。




……自分の存在理由すら失ってた自分を、怒ってくれたのも彼だった。

皆が同情し、腫れ物を触るように扱っていた時に真直ぐ自分を見て叱ってくれた人。

『なんだ、あの有様は?!何を作った!?』

怒鳴られて初めて自分は泣く事が出来た。

自分のやったことを直視し、考えれる事が出来るようになった。

(アンタにとっては…誰にでも…同じ事なんだろうけど、な)

そんな風に出会った相手を、好きにならないわけがない。



ホントに酷い男だと思う。




「……ということだが。わかったか?」

「あ?…あ、うん」

ぼんやりとしてたら、グイと肩を抱き寄せられ書類に顔を埋められそうになった。

「わ、か、った、かい?」

覗き込まれれば至近距離に楽しげな口元。顔に血の気が戻ってくるのがわかる。

「大佐。それ以上なさるとセクハラとして訴えられても文句は言えませんよ」

かちゃん、と目の前にミルクティーを置きながらのホークアイ中尉の警告に救われ、エドはようやく一息ついた。





(……すごい、な)

こくりと暖かい紅茶に口を寄せながらエドはぼんやりと考える。

さっきまで、あんなもの銜えさせられてた唇が今は何事もなかったようにカップに寄せられる。

日常と、非日常のめまぐるしい交錯。

(俺、飲んでるよ、紅茶…)




麻痺、していく。

犯された体。穢された唇。

どんな泣き叫んだ時間も知られなければ無かった事と同じ。

誰にも気づかれず、流れていく存在。

何もかもが変わって何も変わらない自分。

(……そんな、もん…なのかな)

そうして、これ以上傷つきたくなくてゆっくりと心は閉じていく。エド自身そうと知らぬ間に。

 




「それじゃ、私達は軍議があるから席を外すけど…一人で大丈夫?」


細かい訂正に集中力がついていかず思いのほか時間がかかり、

結局エドはひとり書類を抱える羽目となった。



ホークアイ中尉が気を使ってくれるけど、今のエドには独りはとてもありがたくて。

「うん。終わったら。大佐の机の上に置いといていいのかな?」

「ああ、再度訂正がなければな」

答えは戸口近くからの低い大好きな声で。

厭味たっぷりなその口調にエドがつんとそっぽを向いてみせれば、

「まぁ、がんばれ」と幾つかの声が言い置いて、足音とともに人の気配が執務室から消えていく。





訂正自体は言ってしまえば本筋には関係ないものが多くて、

独りになって集中すれば10分とたたず終えてしまえるレベル。

これをわざわざ今日、と言ってよこしたのはやはり大総統の気まぐれな遊びなのだろう。

(俺、が…大佐の前でどんな気持になるか、試してるのか?)

退屈だと言い切った大人には、子供のどんな葛藤も見透かせて面白いのだろうか。


だけど。



エドはふと我が身を省みる。

(もっと、もっと…辛いかと思ってた)

拍子抜けするほど普段どおりの自分。

最初は戸惑ったけど、動き始めればいつもと同じ舞台の上の芝居のように。

(意外に俺、図太いのな…)

それは、無意識の領域で自己を守るため感情が遮断されたからなのだが、エドに気づけるわけも無く。

ただただ、ぼんやりとした疲れが薄靄のように理性を覆っていくばかり。




「…まだ…帰ってこねぇよな?」


宿に帰りたかったが、あんまりに疲れすぎてる。

このまま無理して帰ってもアルに心配かけるだけだ。

そう、誰にともなく言い訳してエドはごろりとソファに横たわった。泥のように重い体にソファが心地よい。

「…すこし…だ、け…」

呟く言葉の終わる前に、エドは気を失うような眠りの中に引き込まれていった…。

 

     

 

 

ちとインターミッション。束の間の、休息かな。







鳥籠レベルの悲惨さかも(笑

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