「……あ」



声が出ない。

手足が冷たい。

血の気が引いているのがわかる。




エドは瞬きすることも出来ずに、ただ、その場に凍り付いていた。


(どうして? どうして、ここに?)

頭の中でわかりきった疑問が悲鳴のようにぐるぐると回る。


どうして? 問いかけてしまえば一笑に付される言葉。

誰よりも自分自身が一番良くわかってる。



(バカ……だ、おれ)

目を瞑って、無かったことにして、大佐とのままごとみたいな日々に逃げようとしてた。

いつまでも放っておかれるなんて……思っていたわけではないけれど。




「どうかしたのかな? 顔色が悪いようだが」

口の端だけ笑みを浮かべ、その男は、ずいと足を一歩踏み出してくる。

言い知れぬ威圧感。教え込まれた恐怖が体の芯からじわじわ這い上がってくる。

逃げ出したい。ここから。

でもそれでは何も解決しないこともまた真実。


「何のマスタング……大佐は、まだ…留守ですが……」

「ああ、わかっているとも。まだ軍議の途中だからな」

それなら、と続けたい言葉は喉に絡まって一言も出てこない。

「すこし、いいかな?」

うわべだけ穏やかな物言い。

受け入れられるのが当然とばかり一歩前に踏み出され、

知らず身体は避けるように後ずさりし結果として室内へと招き入れてしまう。

背後で閉まる扉にエドの背中に冷たい汗が流れた。





(……い、やだ)

この空間だけは、ここだけは自分が守られた場所でありたかった。


だが、そんな場所はどこにも無いと教え込むようにその男は悠然と存在する。



(まさか、大佐の家で……)

大佐の動向を確認している周到さが張り詰めたエドの神経に危険を教える。

だが。



「そう警戒せずともよい」


よほどに追い詰められた顔をしていたのだろうか、

幾分の笑みを浮かべながらエドの頭をポンとたたくと、大総統は案内もなしに居間にと進んでいく。

一人用のソファに腰を降ろし、まるでそこに居るのが当然のように「さて」と口を開いた。

「マスタングとの生活は上手くいっているようだね」

ぐるり辺りを見回してそんなことを呟いてくる。

「あ、……おかげさまで」

何を言いたいのかと不審に思いながらエドは向かいのソファに座った。

本来、客人であれば飲み物の一つも出すのが礼儀だろうが自分は間借り人に過ぎず、

またそんな事をして、誰かがこの家に入ったと大佐に知られるのも怖かったから、

ただ俯いて……そこに留まるしか出来なかった。




信じられないことに、大総統の言葉は穏やかな色を帯びていた。

まるであの悪夢など無かったかのように。


「いや、彼から申し出があった時には心配したが、この周辺が錬金術で破壊された気配もないしな」

何せ人間兵器が二人だから喧嘩などしたら洒落にならん。

はっは……と笑ってみせる姿はかつて知る大総統のままで、それはエドの感情を混乱させるに充分な変貌だった。

真意を測りかねおずおずと口を開く。

「それで今日はどういった……」

「なに特に用は無いのだが、少しばかり所用で外出したので……まぁ気分転換というやつだよ」


その言葉に以前誰かが零していた愚痴を思い出す。

たしか大総統は時折ふらりと姿をくらますので側近が大変だとか言う話だった。


「………息抜き、ですか?」

ふと東方司令部で同じように抜け出していた大佐を思い出し、知らず微かな苦笑が浮かぶ。

「今の中央司令部は人が多くてな。作戦上とはいえ、おちおち中庭で休憩も出来ん」

心底困ったと言う風情で呟かれて、エドはほんの少し警戒を解いた。

少なくとも今は、自分に何かを仕掛けようとする気配はなさそうだ。

おそらくは逃げ出していないかどうか確かめにきただけのだろう。

(あれから一回も軍部には顔出してないし、な)


エドが殴られた事を知ったあの日から、エドは大佐に半ば強制的に自宅待機を命じられていた。

表向きはこれまでの報告書を書き上げるためだが、

誰と知れない相手からエドワードを守るためなのは明白であった。




「そう……ですか」

それ以上続ける会話も無くて、エドは居心地の悪い静けさに身を竦める。

余り沈黙が続くのはたぶん好ましくない。そうは思う、が。

かといって下手に会話を繋いで藪から蛇をつつきだしたくも無い。

カチカチと壁にかかった時計の音だけが妙に大きく部屋に響いた。



「おや、もうこんな時間だったか」

おもむろに立ち上がる大総統に、エドはほっと体中の力が抜ける。

あの契約をこの男が忘れたとは思えないが、少なくとも今は見逃してもらえるらしい。


が、その時だった。


座り込むエドの横に近づくと、大総統は不意に低くなった声で言い放った。いとも簡単に。




「もう体も整っただろう。明日には執務室に来るように」


「………え」

言われた意味が一瞬理解できず瞳を見開く。視界に映るのは傲然と見下ろす支配者の顔。

「何を驚く? 親切にも待ってやったのだぞ」

「で……でも、俺……待機命令が…」

大佐の下した指示に咄嗟にしがみつこうとする子供を、

あざ笑うかのようにその男は鋭い口調で断ち切る。


「嫌なら、私は別にこの家でも構いはしない。おまえに選ばせてやろう」


カツンと一際高い靴音を響かせると、大総統は返事も待たずにその部屋をあとにした。

残された子供は、ただ、呆然と、そこに座り込んだままだったから。



□ □ □




ぼんやりと。


そのまま見上げた瞳に映ったのは見慣れた自分の部屋の天井で。

すいと視線を流せば締め切らぬカーテンの向こう、いつの間にか暮れた空の色が見えた。



「あ……れ?」

我が身を顧みればいつもの青いパジャマ。

やや大きめで厚手の布のそれを選んだのは自分だ。少しでも体のラインが隠れるようにと。

「な、んで……。あ、そうか……俺」

うっすらと霧がかかったような記憶が蘇る。


(そうだ、俺……大総統に、会って……)





あの後、大佐が帰宅したのは太陽が最後の光をあたりに投げかけ、

赤から濃いグレーにと周囲の色が変わる頃だった。

突然の軍議が長引きいつものように昼に帰れなかった事を詫びられたが、

それにすらきちんと反応できなかった覚えがある。



『……何を拗ねているのだね?』

『別に、拗ねてる訳じゃねぇよ』

『それならその仏頂面はなんだい』

『………別に』

それきり黙ってしまったエドを不審に思いつつも、

大佐は底が焦げてしまったシチューを文句一つ言わず口に運んでいく。


一緒に食卓を囲み始めて初めて……息苦しくて。

エドは一秒でも早くここから逃れたいと願い、そして……そうした。





まだ食事をしてる大佐に頭が痛いからと嘘をつき、自室に戻る。

シャワーすら浴びずにパジャマに着替えると、そのままベッドに潜り込んだ。





(明日……)

シーツを被っても眠りなど訪れず、エドはただひたすらに考え続けていた。


一度は割り切った事なのに。

あの時に覚悟は決めたはずだったのに。


(また……あんな、こと……)




足が引き上げられ、割り開かれる感覚。

自分の中に別の熱が入り込み、引き裂かれる痛み。


明日また、自分はあの仕打ちを受けるのだ。



『もう体調は整ったのだろう?』

「体調、ね」

暗闇の中エドは薄く笑った。



全ての始まりとなった体の急変。皮肉にもそれが今日まで自分を守っていたのか。


あの日以降、皮肉にもエドの女性の証はぴたりと止まっていた。

おそらく精神的な衝撃の所為かもしれない。

エドはあの時自分の全てが流れ落ちた気がした自分を知っている。

心のどこかが<女性>である事を拒んだのかもしれない。

支配され、贄にされる存在としての、女、を。



「……ぅ…ぐっ…」

吐き気がする。


『これが、おまえの選んだ道だ』

遠くキング・ブラッドレィの声が響く。



そう。自分で選んだ。自分で決めた。

だけど、つかの間の大佐との暖かな時間を知ってしまった自分には耐えられそうに無い。


無意識に体ががくがくと震えだす。一体いつの間にこんなに弱くなってしまったのか。

(ダメ、だ。決めたんだろ、エドワード。おまえは守るって)

アルを、大佐を。

自分の犯した過ちに、もう誰も巻き込まないように。


(知らなきゃ……良かった、のに)

大佐があんなふうに笑うとか、その腕がどんなに温かいかとか。

他愛無いこと話して、憎まれ口きいて笑いあって、向かい合って食事をして。

それは、ありふれたほど平凡な、でも幸せな光景。

最初から手が届かないものなら、そんな幻影は見なければ良かったのに。

張り巡らしてたはずの壁が知らないうちに熔かされて、こんなにも弱くなっていた。

むき出しの感情。

それでも……どんな偽りの時間でも、欲しがったのも……自分だ。



明日。

中央司令部で、自分は大佐でない男にこの身を開かねばならない。

「……ぃ、やだ…」

ぐっと唇を噛み締めると眦から熱い雫がひとすじこめかみに流れた。

ぎゅっと我が身を抱きしめる。どんな抗おうと避けることなど出来ないのだけれど。

「たすけ、て……。大、佐…」

その血を吐くような叫びに答える声は無い。呟いて我に返り、エドはふっと小さく笑う。

「バカだな、おれは」

もう踏み出した道なのだ。あの時と同じ、もう後戻りなど出来ない。

「……ほんと……ばか、だ」








深夜。


エドは静かにキッチンへと向かっていた。




結局あのまま泣くことも眠ることも出来ず、ただ深まる闇を見ていた。


全ての感情が混沌としたまま封じられていけば、気付くのは体の正直な欲求。

ひりつく喉に「夕食の味が濃かったのだ」と思い至り、飲み物を求めドアを開いた。

静まり返った家。足音がしないよう裸足でエドは廊下を歩いていく。

冷蔵庫から冷たいレモネードを出し、グラスに注いだところで背後から声をかけられた。


「鋼の?」


「……っ!?」



ガチャン! 

慌てて閉めた冷蔵庫の中でボトルが派手な音を立てた。





     

 

 

予定より途中のシーンなのですが一旦UP。
なんだか、長くなりそうだったから……。
ほら、ロイエドっぽいシーンだし、たぶん。





鳥籠レベルの悲

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