「……あ」
声がした方向を恐る恐る振り返れば、開き加減のドアにもたれて立つ男の姿。

微かに届くアルコールの香りから「ああ、飲んでいたのか」と知る。





「こんな遅くに何をしてる」

「……アンタこそ、なに飲んでんだよ。明日大丈夫なのか?」



俺は喉が渇いただけだからと言い捨てて立ち去ろうとした背後から、温かな腕が伸びてきて……囚われる。

「泣いた目をしてる」



覆いかぶさるように覗き込まれ鼓動が激しくなるのがわかった。

いつもなら気付かないこの男の香りが肌にしみこむようで眩暈がする。



弱った心に入り込んでくる誘惑。

(流されちゃ……だめ、だ)



縋りつきたくなる指先で、ぐいとその腕を引き離すと無理やり笑みを貼り付けてみせる。

「酔っ払ってんじゃねぇの?」

「確かに飲んではいるがね。そこまで目が曇ってはいないつもりだよ」

「何の話」



そらっとぼけて部屋に帰ろうとするが、そのまま腰に回されたロイの腕は緩まず、

どころか逃げることすら許さないとばかり強く、エドをリビングにと誘導していく。




「なんだよ。俺もう寝るんだから……」

「まぁそう言わずに付き合いたまえ」

眠れそうにないのなど赤い瞳を見られてしまえばバレバレで。

なのにそれには一言も触れずソファに導くと、奪ったレモネードのグラスをテーブルに置いた。

しかたない、と小さく息を吐き出せば落ちる沈黙。

コチコチと、昼間には気付かない時計の針が進む音が耳に痛い。





「で、誰が来たのかな?」

「え……」

いきなりの問いかけにエドの息が止まる。なんで?

ばれたくなくて、だからお茶を出してカップを汚すことすらしなかったのに。


あの時誰かに見られていたのだろうか。

(でも、それなら誰かは一目瞭然のはず、だよな)

だって相手は大総統なのだ。この地でおそらく誰よりも有名なはず。

(……ってことは。カマかけてきてる、のか?)

それならシラを切りとおすしかない。



「だから、何の話?」

「誤魔化すんじゃないよ、鋼の。誰の家だと思っているんだね」

確信を持った科白に、何か自分の気付けない変化があったのだとようやく思い至った。




「あ、ああ。客っていうか、ちょっと大総統が……」

「大総統?」

「うん、いきなり……」と、ぼそぼそ呟けばロイは合点がいったという様子で。

「まったく、あの方は! 会議に来ないと思ったらそういう事か。なるほど避難場所として可能性はあったな」

「えー、だから、なんか逃げてたみたいだったから……言っちゃまずいかなぁって」

「なるほどね。で、それだけかい?」

「うん」



今度は真実を告げる。そう、尋ねてきたのは彼一人だけだ。ただ訪問の内容が違うだけで。



「では、何が君にそんな顔をさせているんだろうね」

「そんな顔って、元々こういう顔だけど」


わるかったな! 酒の相手が務まるような美人じゃなくて、とそっぽを向いて見せれば

「いや、なかなか悪くはないと思うけどね」なんて予想外の言葉を返され声を失う。

すっと自然に横に座り込まれ、触れるパジャマ越しの温もりに視線を合わせることすら出来ずに。



「……なに言ってんだか。あんた、相当酔ってるんじゃね?」

「ああ……そうかもしれないな」

返される笑みに、今は見逃されたことを知る。


多分納得などしていない。自分の答えに。

問い詰めようと思えば大佐のことだ、どんな風にも言葉の罠を張れるだろう。

だが、まだその時ではないと。



(ほんと、嫌んなるくらい勘がいいんだよな)


追い詰められてつく嘘は、きっと一番互いを傷つける。

だから吐かせたくないのだと言わんばかりに、ギリギリのところでいつも手を緩めてくるのだ、この男は。

それはもっと言うならば、大佐が信頼していてくれる証拠。

エドが隠すにはそれなりの理由があるのだと、そう信じていてくれるから。





(ごめん……)

真っ直ぐに瞳などあわせられなくて、振り向くことすらせず膝の上で組んだ手を見つめる。


壁からの灯りに鈍く光る鋼の罪。

その罪を知りながら、こうして傍に居ることを許してくれる……守ろうとしてくれる人。





せかされることのない沈黙にエドの思考があの出会いの夜にと戻る。

何度も思い返した情景が、立ち去る背中が、開いた瞳の奥にすら焼きついていて。


(なんで……あの時、俺を誘ったんだろう)

当時は夢中で疑問にも思わなかったが、子供が軍属に……国家錬金術師になるということは極めて稀だ。

この男に示されなければそんな道があることも気づかず、リゼンブールで嘆き暮らしていたかもしれない。

(だけど俺たちは出会った)

人生に絶望し、全てが終ったと思った嵐の夜。そこから全てが始まった。

周囲に無茶だとどんなに言われても、蒼い背中に辿り着きたいと思った。

思えば既にあの時から生まれていたんだろうか。この感情の欠片は。







コツ……ン。

肩に重い温もりがもたれかかってくる気配でエドは我に返った。

「え?」

至近距離で耳に届く穏やかな呼吸に、さっきからの沈黙の意味を知る。

うっかり自分が考え込んでいた間に、酔っ払いは睡魔に囚われてしまったらしい。


「ちょっ……まじかよ」

さらりと、いつもは触れもしない黒髪が微かに覗いたエドの耳元を掠め、鼓動を早めていく。

さっきより近くに感じるアルコールの匂いに、巻き込まれ酔ってしまいそう。



自分より大きな体が無防備にもたれかかってくる、その事実に驚く。

焔の錬金術師と呼ばれる男がこんな姿を見せるなんて……。




(そうとう疲れてんだろうか……)

思えば当然かもしれない。東方司令部の指示を出しながら、セントラルではテロリスト対策の軍議をこなし

(そんで、俺の心配までしてんだもん)


ロイが昼に帰ってくる理由に気がつかない程子供ではない。

周囲を探りつつ、自分を保護しようとしてくれているのだ。あんな事が、あったから。

せめて東方なら少尉や中尉がフォローも出来るが、ここでの大佐は一匹狼に近い。

ヒューズ中佐には家族がいる。テロリストが存在する以上個人的な頼みも出来ない。

(アンタって、いっつもそうだよな)


その腕は仲間を支え、その背中は部下を守る。


せめて自分がこんなトラブルを抱え込まなければ……

せめて誤魔化しとおせるくらい大人だったなら、もう少しは楽だったろうに。




(……って、んな場合じゃない)

けしてこの状態が嫌なわけじゃない。肩に触れる温かさは苦しいほど心地よくさえある。

こんなに疲れているなら、幾らでも眠らせてあげたいとも思う。だけど。

考え込む間にも大佐の眠りは深くなる一方で、気を抜けばぐらりと前に落ちてきそうな頭。

うっかり胸あたりにでもずれてきたら、やっぱヤバイんじゃないだろうか。

さりとて支えるには指を伸ばして大佐の顔を触るしかなく、そっと腕を持ち上げてみるがそこから先に進まない。

(心臓が破裂するって! 絶対! むり!)

以前ならともかく、好きだと意識をしてしまった今、そんな事出来る訳がない。

こうしているだけで、馬鹿みたいに緊張して呼吸一つマトモにできないって言うのに。

(どうすりゃいいんだよ)

結局エドにとれる対応といえば「アンタさ、寝るんなら部屋に行けば?」なんて可愛げない声をかけるしかなかった。

どこか幸せを感じる温もりを自分から手放すために。


「……ん……」

「ほら、寝ぼけてんじゃねえよ。重いつーの!」

面倒だとばかり大袈裟に肩を揺らして主張すれば、勢いあまってうっかりと傾く黒髪。



「……っ」

ずるり、と肩から滑り落ちた頭は胸にこそ触れなかったが、そのまま、すとんとエドの膝に崩れ落ちた。



紛うことなき『膝枕』状態への移行。

衝撃はあったはずなのに膝に落ち着いた男の頭はピクリとも動かず、すうすうと穏やかな呼吸だけが空気を揺らす。

(え、あ……? や、こ、これって)

一方のエドはといえば、男とは正反対の理由でピクリとも動けないでいた。

腿の上に感じる熱さはどこか生々しくロイの存在を感じさせ、

うっかり持ち上げた両手をどこに降ろして良いかすらもわからずに。


「……おっ、おい! なに勝手に寝てんだよ、クソ大佐!」

いきおい、態度とは裏腹に口調だけが乱暴さを増し黒髪の陸軍大佐殿を眠りから引き剥がす。

が、その成果は芳しいものとはいえなかった。

「……ぅ、ん……あと5分」

「なに言ってやがる。さっさと起きろ!」

「ああ、わかってる……」

「……って、また寝ようとしてんじゃねえよ」

まるで子供のようなやり取りを数度繰り返した後、

横になっていた頭が寝返りよろしくエドの膝の上でくるりと上を向き、収まりかけた鼓動をもう一度早めた。

「なに……」

なにして、と口にのせようとした矢先に、真下の黒い瞳が不意に開いてエドの言葉を奪い取る。

と、一瞬の沈黙を見逃すことなく、眠っていたとは思えぬ鮮明さで言葉が放たれた。


「せっかく気持ちよく眠っているのに、無粋だな。膝ぐらい貸したまえよ」


まるで上官命令といわんばかりに淡々と言い切ると、返事など待たずに瞼が落ちていった。

すぅ……っと重くなっていく膝の上の頭。

僅かに開いた唇から零れる穏やかな寝息に、嘘偽りなく再びの眠りについたことを知る。

「あ、ばか……っ、寝るんじゃ……」


罵倒の言葉は途中で力なく途切れ、金の子供は続けるはずの科白を溜息に溶かすと唇を噛んだ。

「……気持ち、いいわけ……ねえじゃん」

まだ幼く肉の薄い腿を枕にしたところで収まりが悪いだけだろう。

理屈ではそう思うのに、男はそれを打ち消すかのように穏やかな表情を浮かべている。

コットン越しに伝わる暖かな重み。目の前で緩やかに上下する胸にエドの鼓動が足並みを揃えていく。

ふっと肩の力を抜くと、生身の左手でそっと瞳の落ちかかる黒髪を静かに横に払う。

さらりと流れた髪から覗く、男の寝顔。


(疲れた顔……してんなぁ)



思いもよらず訪れた静かな夜の中、エドは眠るロイを、ただ、見つめた。



それは神様の悪戯のように、突然与えられたささやかで大きすぎるシアワセ。

今、このときなら誰の目も気にせず、ただ見つめていられる。ロイを。恋しい男を。

許されない思いを抱える自分には、けして得ることの出来ない贅沢だと思っていた。

それがこんな間近で。


触れることは出来なくても、視線で全てを覚えこむようになぞる。

落ちた前髪、のぞく眉。閉じた瞳、睫、真っ直ぐな鼻梁から薄い唇や顎の線に至るまで、全部。

鋭い瞳は閉じているといっそう男を若く見せ、これがイシュバールの英雄だなんて思えないほど。

静かに寝息を零す口元は僅か開いて、いまにも声を発しそうに思える。

ソファの端に落ちた指先には、見慣れたインクの小さな染み。

ペンを持つクセで必ずこの爪を汚すのだと、笑っていたのを思い出す。



(ああ……。大佐、だ)



あのロイ・マスタングが自分の膝で眠っているのかと、不思議な気分になる。


本当なんだろうか? 俺はもしかしてもう眠ってて、これは夢なんじゃないだろうか。

止められない感情がエドの指先をそっと動かす。もう一度髪を撫でるように。

指の下で確かに揺れる感覚に、現実だと感じ……囚われる。

(動かない……し、大丈夫だよな?)

そっと、もう一度。今は前よりしっかりと撫でるように黒髪を梳く。

身動きどころか呼吸一つ変わらない相手に勇気を貰って、もう一度。

愛しい。と、叫びたいほどの衝動がふいに身の内から湧き上がってくる。



(どうしよう。俺、この人が、好きだ)

そんな事わかっていたけど。それ以上に。





好きなんて言葉じゃ足りない。この感情をどう名付ければいいのかすらわからない。



守りたいと。


それは魂の底から滲む願い。

この人の傍にいるとか、一緒にとか、そんな事は望まない。望むべくもない。

ただ願うなら、この眠りを安らかに守りたい、と。





そうして気づく、微かな眉間のしわと瞼の下の薄い隈。

(無理……させて、ごめん)


いつまでも閉じこもって守られている自分では駄目だ。

(俺の事は、俺が始末つける。受け止めて見せるから)

どんな目に合わされようと、この人の前では笑っていよう。



大佐が安心してくれるなら、どんな嘘つきにもなろう。

(アンタには……好きな相手が、いるんだもんな)



余計な心配をかけず、足を引っ張らない。

それがせめてもの、自分の恋の形。






二人を包む闇にそう誓いながらエドは、ただ時を刻む音を一人聞き続けていた。





     

 


久々すぎてうっかり展開を忘れそうに(汗)
やはりほのぼの幸せも、いるかと。
し、しあわせ……だよね??





鳥籠レベルの悲

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